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長らくお待たせいたしました。

 昨年暮れ、つい一週間前と立続けに、自己の不手際で転んで(怪我をしました!)全治一週間で済みましたが、足腰が弱って、歳のせいか?と自ら納得しています。そのため、自重を含め本の紹介を一時中断してお休みしていただきます。再開時には、又、より良い本を紹介しますのでよろしく!   2月10日
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世界の博物館14 スウェーデン・デンマーク野外歴史博物館 [本と資料]

 
 
 
 0  14 野外歴史博物館表紙 表裏.jpg
世界の博物館14 
スウェーデン・デンマーク野外歴史博物館
神話伝説と北欧の民家
杉本尚次 岡崎 晋編
発行所 講談社  昭和53年8月 第1刷発行
 Ⓒ講談社 1978年 Printed in Japan 
 
 
1  見返し.jpg 
 見返し
昔から本造りの形式の一つで、表紙裏ページの事をいいます。この言葉には、いろいろな面白い説があり、暇な時に調べて見るのも一考です。私なぞ、本好き人間は、凝る装丁の一つで洒落(シャレ)にもなっていますす(笑)。
 
 
2 扉.jpg 
(右より)デンマークの青銅製兜(かぶと)で、新青銅器時代のもの。
中央、カテガット海峡にあるレーセー島からフリーランド・ムセーに移築された海草葺き(ぶき)の農家。
左、北欧神話を描いた絵石で、上から三段目は絞首の図。
 
 
 
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館長メッセジ&目次
 近年、北欧を訪れる日本の方も多く、我々の自然や文化について深い関心を寄せられているのを目のあたりにしてきました。このスカンジナビア半島を中心に、最初の文化が成立したのは、紀元前1万年昔の氷河時代の最後の氷河期の終わりで、当時、ヨーロッパの中央部では、旧石器時代の後期に入っていました。
 トナカイを追った人々がこの地に住むようになって、極北の地にも独特の文化が築かれてきました。九世紀から十一世紀にかけてのノルマン人の活躍については、バイキングという名で広く知られていますが、これら我々の祖先の生活の跡は、ストックホルムの歴史博物館とデンマークの国立博物館の所蔵品を中心とした遺物によって、正しく理解していただけると思います。また、古い伝統を見直し、優れた文化財を保存することは、今や世界的な風潮といえましょうが、民家や街並みを移築した野外博物館は北欧からはじまったものです。
スカンセン、フリーランド・ムセー、そしてオーフスをご覧になれば、いっそう北欧人の生活について理解が深まることと確信します。本書よって、北欧の博物館めぐりを楽しんでいただいて、この地を訪れた節は、立ち寄ってくださるよう、切望してやみません。
スカンセン野外博物館長 ニルス・エリック・ベーレンツ フリーランド・ムセー館長 ベーター・ミッケルセン オーフス野外博物館長 ハンス・ラッセン
 スウェーデン歴史博物館長 ウログ・イサクソン デンマーク博物館館長 ペェ・ぺェ・グロォプ 

 スウェーデン・デンマーク野外歴史博物館
目次


バイキングの遺産と饗宴を訪ねて 神話の宝庫にふれ、古い民家のたたずまいを見る

第❶室
白夜の国スウェーデン
太陽のもとの夏至祭/古い教会結婚式/簡素な北部の農家/南部の農家と庭/鐘楼と風車と殻倉/ラップ人の生活/他
森にかこまれたしたたかな国 柿本典昭

第❷室
酪農の国デンマーク
ユトランド半島の家/フューン島の農家/フェロー諸島など離島の民家/シェラン島周辺の民家/農村生活の博物館ほか
酪農と社会保障と 石原照敏
古民家の構造をさぐる 山本勝巳

第❸室
デンマークの町家
市長の家/職人たちの家/公共の建物/町家の博物館ガンムル・ビュー
生きている町並み 杉本尚次
タピストリーのある生活 川上玲子

第❹室
北欧神話へのいざない
エッダの世界/狩猟民の祈り/母なる地の神/ファルス崇拝/オーディンの信仰/パルハルの饗宴/
極北の神々さらば『エッダ』の神々よ 岡崎 晋


第❺室
陸と海のバイキング
フィヨルドからの遠征/船にかける夢/陸での日々/豪華好みの装い/神々から神へ/平安への祈り
見直されるバイキング 岡崎 晋

スウェーデン歴史博物館案内図
デンマーク国立博物館案内図

巻末談話室
ゆめみる大通り はるかな童話の国への巡礼の旅   立原えりか
北欧家具を支える技術と精神  川上信二
まぼろしのラップ 未知を求めて旅立つ 柴岡治子
バイキングの植民と遠征 北欧からイタリアへ、その足跡を辿る 遠藤紀勝
フィールドに息づく民家と村落の伝統 世界の野外博物館めぐり 杉本尚次
 
 
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p13-14 太陽のもとの夏至祭
北欧では、6月の夏至(げし)祭は盛大に行われる。春の遅い北欧では、農作業の始めにあたるので、年中行事の中では最も重要なものとなっている。 夏至祭に広場や戸口に五月柱を立てる習俗は、春の到来とともに農作と幸福を祈る素朴な古い樹木信仰の名残りといわれている。
 
 1 民族衣装の娘たち 五月柱を囲んで夏を迎えた喜びと豊饒を祈って踊る。   3 森の中を巡廻馬車 広いスカンセンを巡廻する馬車は子どもたちに人気がある。   4 マジュストゲン(五月柱) スウェーデンでは六月のミッドサマー(夏至)の日に、幸福と幸福を祈って松や白樺の木を広場に立てる。木に草花や若葉で作った飾りを取り付ける。ドイツやスイスなどヨーロッパ各地では、五月に立てるのでメイ・ポールというが、北欧では夏至が作物の成長する喜びの春にあたっている。   5 五月柱を立てる スカンセンでは、毎年夏至の日の前日に五月柱を立てる。市民がこの行事に参加し、飾り付けは子どもたちや女性、掛け声を合わせて建てるのは男性。柱にはハートや十字型の草花や緑の葉で作った飾りをつける。柱は翌年の夏至祭まで残される。

 
 
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p20-21 簡素な北部の農家

北欧は木造建築の宝庫だであった。丸太・角材の校倉(あぜくら)造りの民家が美しく、屋内には素朴な木製の家具類も多く、木の香りに満ちている。 スカンセンでは、特にスウェーデン中北部の建物が多く、各・地方色豊かな民族を付けた人々がいて、生きた生活のある姿を見せてくれる。
 
17 ヘルシングランド富農の家 18~19世紀の農家。入り口の切妻屋根(きりづまやね)の支えの厚板は切り抜きである。居住棟は総木造で3~4室からなり、厚い木の机や長椅子など木の文化に満ち溢あふれている。   18 富農の二階屋 柱も壁も木造で、赤茶色に塗り、屋根は瓦葺き(かわらぶき)。   19 ダーラナ地方の民家 中庭を囲んで数棟の建物が並ぶ。すべて丸太校倉式。屋根は半割の丸太ぶき。写真の建物は全部倉庫で16世紀の建物である。この他に牛小屋・酒蓄蔵庫などがある。   20 校倉造りの倉庫 木の階段が面白い。1階は乾燥を収納する。   21 ヘリエダーレン地方の農家 18世紀の建物。壁は厚板の校倉造り、屋根も厚板ぶきである。屋根からの落雪を防ぐため、玄関口に切妻の小屋根を突き出している。倉庫・家畜小屋・貯蔵庫など付属建物が中庭を囲んで建っている。農家の全建物をセットにして農村生活を見せようとしている。   22 ダーナラ地方の農家 16世紀の住家。丸太校倉造り。屋根は白樺の皮を敷き、丸太の半割り葺きにしてある。切妻の小屋根の垂れ板は切り抜きで、簡素な美しさがある。住家には若主人が住んでいた。厚板の机をはじめ、室内の調度品や飾るは質素だが温かみが感じられる。
 
 
 
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 p24-25 南部の農家と庭
スウェーデンは耕地と牧草地を合わせても国土の10パーセントを占めるに過ぎない。農業はスコーネ州・ハランド州など南部が中心。農家も中庭を建物で囲んだ立派なものが多く、デンマークと類似している。南部の一部はかつてデンマーク領の時代があった。
 
30・31 八ランド地方の農家 中庭を囲んで住家・納屋・家畜小屋など数棟の建物が建つ。18世紀の建物で、1890年にスカンセンに移築された。屋根はライ麦殻で葺き、短い千木のような棟飾りが多数並ぶ。図30の正面は、煙突のある低い棟は居間で、天窓がある。図31は、脱穀などの農作業小屋。馬車をはじめ多数の農具類も展示している。他に醸造小屋・井戸なども持っている。スウェーデン南部の典型的な農家である。   32~34 スウェーデン南部ブレーキンゲ地方の民家 中央居間、両翼は二階屋で、総木造校倉造り。屋根は樺皮で葺き、その上に芝土を乗せている。芝土の落下を防ぐため板を張っている。居間のの屋根には天窓がつくってあり、木彫りの破風飾りが愛らしい。古くは小屋家畜舎などが中庭を囲んでいた。夏季に蜂蜜採集の実演をしている。生産する農家の姿を見せる試みは管内各所で行われている
 
 
 鐘楼と風車と穀倉
スカンセンは各地の住まいの他に種々の建物が集めてある。中でも、高く聳える二つの鐘楼、三つの風車、そして森の中に点在する木造の穀藏などが情趣を添えている。 

36 鐘楼 スウェーデン南部ベッテルン湖付近から移築した鐘楼で、1732年のもの、柏の木片が美しく壁面を飾る。高さ38メートルあり、風見鶏がスカンセンを見下ろしている。 スウェーデン北部イエムトランドから移した鐘楼(図37)は1778年に建ったもので、高さ21メートルあり、得意な姿は印象に残る。   35 登山鉄道 は起伏に富んでいるので、小さな登山鉄道は子どもに喜ばれている。   37 参加する博物館 夏季には定期的に種々の実演がある。染色作業をする友の会の人たち。
 
 
 
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p26-27 鐘楼と風車と穀倉2
 
38 草葺き木造小屋の上に立つ風車 ペーネルン湖付近で1828年再建の後ここに移築された風車。この形態は、17世紀にオランダ風車の影響を受けたものといわれている。   39 スウェーデン南部エーランド島の風車 二台の風車が並んでいる。偏西風の吹く北西ヨーロッパ農村には風車が多く見られたが、この風車は建物ごと風に向かう仕組みになっている。   40 ピクニック 岩山全体が緑に包まれ、入江を望む優れた環境。ピクニックの人たちも多い。   41 穀物倉 ノルウェー南部テレマルク地方の穀物倉。二階はやや張り出しているが、壁体の丸太を伸ばしてあるので、丈夫な構造になっている。壁は丸太の校倉造り。階下の床も少し高くしてある。屋根は白樺の皮で葺き、上に芝草を植えている。階下は穀物や食品倉庫。二階は衣料入れ、時として客室にも使っている。   42(左頁全)穀物倉の正面 隅柱には素朴な模様、入口の枠板や二階の窓枠には唐草模様が刻まれ、木目と調和している。
   
 
  
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p34-35  町家の再現
 
町家の再現
スカンセンでは農家や各種建物を個別に移築しているが、一方、ストックホルムをはじめ、各地の市街地から町家を集めて町並みを再現している。
 
62 薬種商の家 1794年に建てられた街角の赤茶色の建物。調合室には薬草や調合用具が並んでいる。   63 金属細工仕事 手の込んだ彫金師の仕事ぶりを見せる。19世紀末までストックホルムでみられた。   64 鍛冶屋 18世紀の石造りの建物。二階の作業場では銀細工に腕をふるう。実演が行なわれている。   65 印刷工房の製本作業 1725年の建物で、製本室の設備は19世紀後半のもの。大きな机の上に道具類が並び、本の装幀、表紙のマーク入れ、切断作業など、手造り時代の姿を見せる。   66 古い町並み 主としてストックホルムの旧市街地から移した建物を、坂道に面した町並みとして再現している。右側は印刷・製本屋で、赤茶色に塗った木造の建物。向かいは鍛冶屋・金属細工工房。それぞれの建物では作業風景を見せてくれる。ガラス工場では、職人が実際にガラスを吹いて製品を作っているし、製品を土産物として売っている。活力のある古い町の姿がよみがえる。
 
 
p38-39 大公園博物館 スカンセン 
 
 
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 絵地図 執筆・杉本尚次
 
 
 
 
 
 
 第2室 酪農の国デンマーク
 
デンマークはユトランド半島と数個の島々からなる。この国は農業国のイメージが強い。人びとの努力によって荒涼とした国土を農地や牧場とし、諸改革を続けながら酪農の国デンマークをつくり上げた。これら農民の伝統的な生活文化(特に住居)を展示したのが、首都近郊にある野外博物館フリーランド・ムセーである。

 
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87 古い風車 一部を除き、1662年に建った古い風車。デンマークの風車は13世紀頃から記録に載っているという。
 
 
 
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p50-51 西海岸の漁夫小屋
 
  102 (右上)西海岸の漁夫小屋 砂地の敷地に三棟の原始的な漁夫の小屋があり、魚も干してあって、元あった海岸砂丘の雰囲気が出ている。屋根を直接地上に組み、葦や砂丘に生えるハマムギで葺いている。入口脇に砂の多い芝土で作った煙突が立ち、炉やベッドもある。   103 漁具小屋内部(右頁全) 三棟以外に、漁網など漁具類を入れる小屋が一棟ある。材木は内陸にあり、春になって漁期なると、海岸の漁夫小屋に住んだ。季節的な住居である。かつて海岸にはこの種の漁夫小屋が多く見られた。   104 レース作り教室 北部シュレスウィヒ地方の農家で、1972年に移築・公開された。この家の台所の背後の部屋がレース作り教室になっている。レース作りはこの地方の重要な手工芸であった。   105 陶器作り 村の陶器工房での実演風景。   106・107 レース作り 図104の家ではレース作りを主婦や娘たちに教えた。教室には作業台や、ロウソクの光を明るくするための水を入れたガラス玉が吊ってある。レース編み作業も定期的に実演する。
 
 
 
 
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p52-53 フューン島の農家
 
  フューン島はアンデルセンの出生地である。肥沃な農耕地がひろがる。ユトランド半島とは鉄橋で、コペンハーゲンのあるシェラン島とはフェリーで結ばれる。農家や水車が集めてあり、機織り、木靴づくりなどの実演も見せる。
 
 108 大型農家 中庭を建物で囲んだこの型は、デンマークからスウェーデン南部に分布している。この野外博物館にも類型が六棟ある。木骨構造で壁はレンガをつめたものが新しい形式で、白漆喰をぬっている。屋根は草葺きで、小型の木製の棟おさえがずらりと並んでいる。中庭は農作業場で石が敷いてあり、薪が積んである。左側は住家。   109 農家の台所 床は石を敷き、壁は白漆喰で塗り上げている。机の上には種々の用具が並べてある。住家の他に使用人の部屋と家畜舎、脱穀場や小屋が中庭を囲む。   110 機織り風景 図108の家の一部。夏季に実演が行なわれる。   111 木靴工房 フューン島西南部の小農の家の一角にある。木片から木靴が出来上がっていく種々の段階を見ることが出来る。梁に完成品が並べてある。   112 水車 木組の美しい大きな農家の東端にある。牧歌的な谷間にあった水車で、元の環境をできるだけ忠実に復元しようとしている。   113 小農の家 住居の部分で、二つの煙突は炊事用と暖炉用。1839年の建物。正面から見ると単純な草葺き寄棟民家だが、後方にも建物が伸びて中庭を囲む形式になっている。棟に並んだ千木(ちき)のような棟おさえは、日本の農家にもみられる。壁の白漆喰は毎年塗る。木骨構造だが木組も白く塗っている。この家に木靴作りの作業場がある。
 
 
 
 
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p72-73 職人たちの家
職人たちの家
 桶屋(おけや)・靴屋・薬屋・時計屋・印刷工場・窓ガラス工場・醸造所など、町工場的な建物が数多く集められているのが特色で、小都市ふう町並みを作る。
 
  165 商人の家と馬具工場 小川の対岸からみた風景。三階建て急勾配の切妻屋根と赤色の木組の美しさは、「古い町」の中で最も目をひく。1585年に建ったオルポーの商人の家。右側の木骨構造の建物は馬具工場で、16世紀中頃のもの。一階は馬具製造工程などを見ることが出来る。   166 染物屋 17世紀中頃の染物屋で、オルポーから移築。屋根裏窓から、染物屋の印である手織りの濃藍色に染め上げた旗がかかっている。   167~171 ユニークな看板 167は時計屋、 168は金細工屋、 169は帽子製造工場、170はタバコ屋、171は古い倉庫 の破風と棟飾り。   172 窓ガラス工場の作業場 窓ガラス制作の道具類。   173 染物屋の木版 各種の意匠を彫った染物用の木版。シンメトリカルなものが多い。   174 時計屋と時計博物館 オーフス近郊にあった1650年の建物。 一階左側は時計工場。二階は懐中時計や柱時計など古い時計のコレクションが見事。 一階の一部に金細工工房がある。
 
 
 
 
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p74-75 職人たちの家 2
職人たちの家2
 175 帽子製造所 シェラン島の古い町にあった18世紀初期の建物。 平屋建てで、入口のピカピカ光る帽子の看板が面白い。客の注文に応じて注意深くフェルトの型どりをする。   176 タバコ店 オーフスにあったタバコ製造工場の建物で、18世紀のもの。この中にあるタバコ屋の店である。秤などが見え、各種のタバコの包装が並べてある。   177 桶屋(おけや)長屋の中央にある桶屋の作業場。木片から桶が仕上がる過程を見せてくれる。   178 テラスハウス ユトランド半島のランダースにあった1741年の建物。手前から靴屋・桶屋・ピン製造と獣脂ロウソク製造工場が並び、それぞれ街路にユーモラスな看板を突き出している。   108 織物博物館   オルポーの大商人邸宅の一部を移築。17世紀末の建物。18世紀中頃から19世紀末までの都会や田舎の織物と衣装や刺しゅうなどを展示。図はデンマークの伝統的な民族衣装。   179 パン屋 18世紀初期。店の窓飾が愛らしく、子どもに人気がある。古風なケーキやパンを売っている。   181 靴屋 テラスハウスの一角にある。反射用のガラス玉が見え、手造り時代の靴製造用具類が並ぶ。19世紀中頃の典型的な靴製造所。
   
 
 
 
 
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p78   ロマンチック街道と古い町々 図面(187)
 写真左上から 188 ストックホルムの古い街区ガムラ・スタン 市の最も古い中心部にあたっている。   189 ノルウェー民俗博物館の民家 木造校倉造りの民家や倉庫など移築した野外博物館。   190 ネルトリンゲン ロマンチック街道に沿う中世都市。円形の城壁、古い街区が残る。
 
生きている町並み
郷土の歴史的環境を保存する姿勢
 
 
 
 
 
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 p86-87 エッダの世界
 
エッダの世界

 エッダとは詩学を意味し、バイキング時代と推定される作者不明の書の写本の「古エッダ」と、スノリ・ストゥルルソン(1179~1241)の手になる『新エッダ』の総称である。その中から北欧の古い信仰が読みとれ、古スカンジナビア人の信奉した異教が、おおむね推測される。彼らの神信心はこのエッダの世界にあるといえよう。そしてその世界は古くから芸術にも表されている。
 
  206 金メッキの青銅製風見(かざみ) スゥエーデンの教会にあったもので、バイキング船のマストの先についていた。その装飾は、大きな動物(これでは翼をもつ竜)を主モチーフとするバイキング時代の芸術様式である。ギンゲリケ・スタイルで、1000年代に見られるのである。   207 太陽の馬車 当時の農耕儀礼において太陽を崇拝したことを示す証拠遺物の一つ。旧青銅器時代(前1500~500)の中期頃のもので、同時代の平たい岩の表面に船・人・馬・太陽などを刻んだ平岩面影刻の太陽象徴と軸を一にするデンマークの出土品。   208 銀製の鍋 前三世紀~三世紀のもの。外側・内側・底の中央に浮彫模様があり、当時の宗教・衣服・武器・装飾品を知る上で大変重要である。デンマークの出土品。ケルト人製。
 
 
 
 
 
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p149-153 ゆめみる大道り
右頁・写真 アンデルセン像と子ども 
左頁・写真 上 トナカイの群れ  中段・右 トーべ・ヤンソン フィンランドの作家 ムーミンの原作者。一番下はムーミン一家 自らの描く ヤンソンの筆による。
 
立原 えりか・文   ゆめみる大通り
はるかな童話の国への巡礼の旅 
 
  何年も前の六月、コペンハーゲンの空港に降りおりた時の想いを、忘れることはできません。あれほどのよろこびと幸福を味逢うことは、一生にただ一度かもしれないとおもうくらいです。ほかのひとたちとおなじように、私もただの旅人でした。生れてはじめて眺める外国の空に、胸をときめかせているひとりでした。
けれえど、デンマークは私にとって、あたりまえの外国ではなく、聖地とよぶにふさわしい国だったのです。たったひとりの作家アンゼルセンが生まれたその国を、私は長いあいだあがめ、ゆめみていたのでした。 
 とうとう、アンゼルセンの国にたどりついた、とおもったとき、ふるえるほどの歓喜が心をゆさぶりました。いつかデンマークへ行こうという激しいのぞみが、やっと叶ったのです。それほどの幸福はありませんでした。


小さな人魚姫との出合い
私の魂が育った国へ
 
「海のはるかな沖合では、水の色はいちばん美しい矢車草の花びらのようにまっさおで、きれいにすきとおったがらすのように澄みきっています」(矢崎源九郎訳「アンゼルセン童話集」新潮文庫)と語りだされる「人魚の姫」を読んだのは、小学生のころでした。私はたちまち、いちばん美しい矢車草の花びらのように、まっさおな海にとらえられてしまったのです。私の知っているのとはちがう色をした海、ガラスのように透きとおった海が、この世のどこかにあり、そこまで行けば、小さな人魚の姫がいるお城もあるのだとおもいついたのが、どうわとよばれる国にのめりこんだきっかけでした。
「田舎はほんとうにすてきな時でした。夏のことです! 小麦は黄色くみのっていますし、燕麦(えんばく)=イネ科の一年生または二年生作物。中央アジア原産で、畑の雑草から作物化したとさっれる。オート・ミールとして食用とするが、現在は主に飼料。オートムギともいう。(この項広辞苑より引用) はみどりに色づいて、乾草は緑の草地に高く積まれていました。こうのとりは長い赤い足で歩きまわっては、エジプト語でぺちゃぺちゃとおしゃべりしていました」(同)とはじめられる「みにくいあひるの子」も小学生の少女をゆめみませた。どこまでもひろがるみどりや、こうのとりや、白鳥の卵を抱いているあひるの母親がいる国が、幼い少女の心のおくでふくれあがり、ゆたかに息づいたのです。遠い北ぐにで生まれたアンデルセンの物語で、私の魂(たましい)はそだったのでした。ほかにもたくさんの物語があり、作家もいたのに、「人魚の姫」ほどくりかえして読んだものはありません。
 はるかな海や田舎へのあこがれは、年ごとに深まり、激しくもなってなって行きました。人魚のお城がある海も、あひるがいる田舎も、アンゼルセンが描いた世界にちがいないのに、デンマークへ行けば、そんなものにめぐりあえると、私は信じきっていました。
アンデルセンが描きたかったもの
 小学生の少女から娘にかわっても、デンマークを中心とした北欧へのあこがれは消えませんでした。ほかの娘たちは、とっくに恋をゆめみはじめているのに、私は小さな人形の姫になりたがっていました。
 人間の王子に恋をしたせいかで、人魚の生活を捨て、口のきけない娘になった小さなお姫さまは、いとしい人のそばにいることはできても、結婚はできませんでした。人魚の姫が、嵐の海から自分をすくってくれたのだとは知らない王子は、別の娘をえらびます。王子がえらんだ娘は、浜辺に倒れていた彼を介抱してくれた人でした。「わたしは、わたしを助けてくれた人と結婚をすることにきめていた」という王子のとなりで、人魚の姫は血を吐くほどの思いを抱きます。「あなたを助けたのは、このわたしなのに・・・・・」
 その王子を殺してしまえば、もとの人魚にもどれるとわかっても、姫はこばみます。とけて泡になるために、しなやかな体を海に投げるのです。
「人魚の姫」で、アンデルセンが描きたかったのは、清らかな魂であり、その魂は、神さまの存在を、何よりも強く信じているのだと気づいたのは、ずっとあとのことでした。
 
 
立原えりか・文  「はるかな童話の国への巡礼の旅」はこの後も続いていますが、私のこのページは
残念ですが、これで、終了です。
「世界の博物館」シリーズの一部分でしたが、このシリーズの紹介もオシマイです。気になる図書でしたら、お近くの図書館などでお調べください。
 
 
 
 
 

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世界に博物館=11 ミュンヘン科学博物館 [本と資料]

 あけましておめでとうございます! 新年のご挨拶がやっと一週間過ぎてできました。実は自分の年賀状もすっかり忘れて、このブログに四苦八苦する日々でした。前回、《完成した時点で公開します》と御約束したばかりですが、完成は何時??と言われれば・・・・・??。とにかく博物館シリーズは専門的解説文が多くて、解説文を入れないと、写真だけではなかなか理解に苦しむ。と配慮しました? パソコンの世界は人それぞれの環境の違いが難しい問題大です。

 

 「ミュンヘン科学博物館」表紙.jpg

 世界に博物館=11 ミュンヘン科学博物館

自動車とドイツ科学技術の粋

高橋雄造編

発行所 講談社    昭和五十三年十月 第一刷発行  

 ⓒ講談社  1978年  Printed in Japan

 

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扉 

カット写真 (右から)1726年につくられた赤道儀日時計。 1913年のメルセデス・タイプ25・ライゼバーゲン。 1893年のヘゼキール一眼レフ。

 

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館長メッセージ  

テオ・シュティルガー ミュンヘン科学博物館長

自然科学と技術のすばらしい成果を収集したこの博物館は、ドイツの博物館と命名されていますが、実は国際的なつながりによって成り立っているのです。創立者オスカー・フォン・ミラーは、パリの工芸学校博物館、ロンドンのサウス・ケンジントン博物館から深い感銘を受けこの博物館の構想を得たのです。この博物館に展示された品々も、単に「ドイツ」という名称を超えています。なぜならば、自然科学や技術においては、国境は存在し得ないからなのです。これは、かってもそうであったし、今日もますます、その傾向を深めているのです。・・・・・以下省略・・・・・ 

 目次

世界最初の現代的技術博物館 生きた科学の展示品に、誰もさわれる参加型博物館

第❶室

暮らしの中の科学

時を刻む工夫/織りと染め/古きよきカメラ/印刷機の歩み/ガラス器とレンズ

カメラ王国の栄光と盛衰

第❷室

冒険の科学技術

深海へ潜る/大海原を越えて/より高く、より速く/レールは果てしなく

空へ! そして深海へ

第❸室

名車を生んだ技術

ガソリン自動車が登場するまで/ガソリンエンジンの発明/スタイルの確立へ/大衆化への歩み/奇妙な試み/他

疾駆する文明を創った人々

第❹室 

実験室と鉱山

錬金術師の部屋/黎明期の化学実験室/物理の部屋/近代の坑道/治金の歴史/祈祷所とカンテラ/岩塩坑

錬金術から化学へ

第❺室

音を楽しむ世界

楽器の王様ピアノ/楽しい自動演奏機/オルゴールと音楽人形/楽器の女王ハープ

心に語りかける妙なるメッセージ


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p6₋7  世界最初の現代的技術博物館

 

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 p16-17 時を刻む工夫

 3・4 歯車型時計の展示室とミュンヘン科学博物館の大時計 ミュンヘン科学博物館の正面玄関に立ち西空を見上げると、図4の時計が目に入る。1935年、エルンスト・アンドレアス博士によって設計された美しい天文時計で、月の位相を知ることができ、下の彫像によって曜日を示す。この大時計は、図3のような精巧な歯車によって運転されるわけである。

 

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時を刻む工夫 2
 5 切り替え装置付き説教台用砂時計 エデンの園のアダムとイブをあしらったこのしゃれた砂時計は、18世紀のドイツ製。教会の司祭が説教するとき、その説教台に取付けられてあった。  6 カルダン式懸垂装置つき日時計 18世紀の半ば、ロンドンんでつくられた精巧な日時計。左下に見えるのは、16世紀末につくられた羅針盤の付いた赤道水平日時計である。   7 象牙製折り畳み式日時計 1599年、ヤコブ・カーナーによって作られた日時計で、携帯に便利なように、コンパクトな折り畳みになっている。象牙を使用した非常に高価なもので、美術品としての価値も高い。   8 一時間砂時計 19世紀末につくられたもおの。一つの瓶の砂で15分の時を知ることが出来、順次、30分、45分、1時間の経過が解るようになっている。   9 赤道携帯用日時計 1750年、アウグスブルグのフォーグラによってつくられた。持ち運びに便利で、主として旅行用に使用された。   10 赤道儀日時計 1726年、アウグスブルグのヨハン・ピングラントのつくった日時計。三つの測定版の付いた精巧なものである。
 
 
 
 
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p20-21  織りと染め 
 12・13・14 捺染(なつそめ=上から押し付けて染める)工程とその模様型 ここに復元されているのは模様染めの仕事場である。カメに入っていっる糊(のり)状のものの中に、捺染の模様型を浸し、それを白い亜麻(あま=一年草の高級繊維用植物。現在はほとんど見慣れない?)布に押し付ける。図13・14は、その模様型(木製)。バイエルン地方の民族衣装に使われるが、全て手作りで、非常に高価。  11 ジャカール装備つき大円形織り機(右)とファインリップ機(左) 右側は1972年のドイツ製オリジナル。ジャカール模様のための表布地専門機で、一時間に6~12メートルのスピードで編まれる。全自動式の新鋭機。 左は、1925年のドイツ製オリジナル。木綿下着用織り機。糸が切れたり、針が折れたりした時、自動的にモーターが止まる仕掛けに。   15 垂直半軸織り機 この種の織り機は、すでに新石器時代に出現していたことが証明されている。石を交互に絡めて編み上げる。最も原始的な織り機。これはラプランド地方で使用されている。
16 テープ(リボン)織り機 19世紀はじめのドイツ製オリジナル。10本のさまざまの色のテープが一度で織れる。1960年頃まで実際に工業用に使用されたもの。極めて効率の高い実用的な機械であった。
 
 
 
 
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p24-26 古きよきカメラ
 
18 ロールフィルム・ボックスカメラ 1890年、コダック社製のボックスカメラ。初心者向けの軽便なカメラで極めて取扱いが易しい。   19 ゲルツ・アンシュッツ・モメント・アパラート ゲルツ・アンシュッツ瞬間写真機の最初の型は方堆形をしていたが、1892年のこの形からスクエアーな形状に改められた。ゲルツは製造会社名、アンシュッツはこのカメラの主要生命であるフォーカルプレン・シャッターの発明者名である。アンシュッツ・シャッターは1000分の1秒の高速を正確に出す。当時世界最高性能の布幕式シャッターであった。   20 ヘゼキール一眼レフ 1893年、ベルリンのヘゼキール博士の作。初期の箱型大型一眼レフの高級タイプである。ボディはマホガニー製。、金属部分はニッケルメッキされたデラックスタイプ。シャッターは布幕ローラープラインドなので、それ程確実な精度は求められない。使用感光材料は乾板、画面サイズは大陸手札版の9×12センチ。  【この図24~28までは解説文は編集の都合上でページと一致しません。ご注意下さい。】    24 マリオン・アカデミー 1883年製。カメらの分類では二眼レフに入るが、珍しい形状のカメラの一つ、下段のボックスに3×3センチ判の乾板を、切込に取りにきちんと入れ、中段のボディに取付ける。焦点位置まできたらカメラを逆さまにすると、一枚だけ乾板がボディ内に落ちて止まる。撮影したらストッパーを外す。この繰り返しで12枚の乾板を順次撮影するカメラである。   25 サットン・パノラマ・カメラ 中央に水を入れた球面体レンズで120度の範囲を写す超ワイド・カメラ。発明者は英国のトーマス・サットン。湿板時代のもので、ピントグラスも湿板も湾曲している。全部で30台程しかつくられず、数年前、ロンドンのオークションに出てきた時、1万1000ポンドの値が付いた。   26 ゲルツ・レフレックス・アンゴー 1908年製。一眼レフだが、撮り終わって携帯する場合にはレンズ部分が、カメラ下部の前方が透けて見える部分に折りこまれ、、ピントフードも畳まれて、小ぶりの箱におさまる。この形式の一眼レフは、大型箱型一眼レフのゴロゴロした不快感さから脱仕様うと考案されたもので、欧州各国で盛んにつくられた。   27・28 カメラ・オブスク カメラ 写真機の基になったもの。図28の左の穴から入ってきた光が箱に内蔵された鏡に反射して、図27の曇りガラスに写される。画家は、ここに現在で云うトレーシング・ペーパーをあて、外の景色を写し取り、デッサンの補助とした。ここにあるものは、美しい装飾が施され、画家用というより家庭で楽しまれたものである。ちなみにカメラ・オブスクラとは、暗い箱の意である。
 
 
 
 
 
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 古きよきカメラ 2
 
 30 ポスコ・オートマット写真 1894年製。 今でも駅などで見かけるパスポート用一分間写真の元祖。このクラシックな箱の前に立ち、セルフサービスでシャッターを切ると、三分後には自分の肖像写真が出来上がってくる。この機械はハンブルグでつくられたもの。写真の方式はフェロタイプと呼ばれる。フェロタイプのカメラは日本にもあったが、操作を自動化したところにポスコの面白さがある。   31 クラインフィルム・ボックスカメラ・ウネッテ エルネマン社製の初心者向きの大衆カメラ。機構が簡単で、取扱いが易しい。1900年前後に出回った。  32 ゲルツ・ポケット・テナックス 1908年製。第二次大戦の前後全盛だったスプリングカメラを覚えている人も多いと思われるが、このポケット・テナックスは、その先駆になったカメラの一つ。格納されていたカメラ前蓋(まえぶた)をボタンで押し開けると、蛇腹がスプリングの力で飛び出してくる・当館では、1908年製造の説を採用しているが、既に英国写真年鑑の1907年版に広告が出ているので、製造年は、1906年まで遡るかもかも知れない。   33 三色分解カメラ マガジンカメラのレンズ前面に三色分解用フィルターを付けたもので、撮影した黒白乾板を基に製版して、カラー印刷する。黄赤の色フィルターでは補色のシアン(淡青色)版が撮れ、緑のフィルターではマゼンタ(淡赤色)版が、紫色のフィルターではイエロー(黄色)版が撮れる。この三色を重ねてカラー印刷するための、製版作成上の道具である。年代不詳。   34 初期のトーキーのセット オスカー・メスターは1912年、自分の作ったビオフォーン(写真右の蓄音機)

 
 
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p30-31 印刷機の歩み
 
35 写本する僧侶 中世のヨーロッパでは、モノを書くということは、主にベネディクト派の僧侶が行なった古代ローマの書物が、現在まで伝わっているのも、こうした僧侶の写本のおかげともいえる。写真は10~12世紀の修道院の書き物室の再現したジオラマ。用紙はヤギ・ヒツジなどからとった洋皮紙。  36 オフセット印刷機の元祖 プラハ在のアロイス・ゼーネフェルダーが1797年に完成した棒式印刷機で、石灰石で腐食(ふしょく)させた皮を使った。この版に紙を乗せ、枠で固定し、長い棒に付けられた刷毛(はけ)を、写真右下の足踏み板で押さえつけ、手でこの刷毛を強くこすったといわれる。この機械で,彼は、後に史上初の平板印刷を行い、近代的オフセット印刷機への橋渡しをした。   37 16世紀の印刷所 本館の印刷機展示室には、歴史を物語る貴重な印刷物なども収められている。これは、1580年頃の活版印刷工場を描いた銅版画。この頃は、グーデンベルク以降の活版印刷の最盛期といわれる。同じ頃、1590年には、ポルトガル人宣教師ワレニャーノによって日本にも洋式活版印刷術と銅版画の彫刻法が伝来している。   38 ジョージ・クライマーの印刷機 クライマーはアメリカ人で、1816年にこの機械を発明した。コロンビアプレスと名付られて二年後にはヨーロッパに伝わり、大いに普及したという。圧盤を上下させるのにテコの原理を採用し、作業時間の短縮に役立ったが、手動圧式であったため、後続のピーター・スミスやハーガーなどの新発明によって、僅か数年後には衰退いていった。 
 
 
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p23-33 印刷機の歩み 2
 
 39 18世紀の印刷工場のジオラマ 植字工は、写真左下の机の上にある原稿を見ながら、写真左の植字棚から活字を選んで植字を選んで植字版にはめこむ。髪は色をよくするために前夜から湿らせてある。同鍋で煮た油と松のススを混ぜたインクで色を付け、右側のハンドプレス機で印刷した。このジオラマのうち、植字棚とハンドプレス機はオリジナルである。   41 木製ハンドプレス 1813年、クリスチャン・アダムによって南ドイツのロイトリンゲンでつくられたオリジナル。一日の可能印刷枚数は、約300枚である。   42 ロコタイプ印刷機 ロコタイプとは、写真化学平板の印刷工程である。1855年、フランス人のボアトマンが初めて試み、18657年ミュンヘンのヨゼフ・アルベルトが、コロタイプの印刷工場を開いた。 図42は、ミュンヘン科学博物館が1921年、ベルリンで購入したものであるが出所は不明である。  40 石板手引き印刷機 1848年製、バイエルンの土地測量局では、1960年まで、この印刷機で地図を刷っていた。石版印刷のための最初の実用的な印刷機は、1805年、ミュンヘンのH・ミッテレルによってつくられ、その後、このタイプの印刷機は広く普及した。   43 広告塔 この中には、配電用の変圧機(日本では電柱の上にのっている)が収められてあり、電気は地下ケーブルでおくられる。現在でもヨーロッパの街角でよく見かける。 ここに貼られているポスターは19世紀末のもので、大西洋横断のパック旅行、自転車の広告など、当時最先端のカラー印刷を見ることができる。  
 


 
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p72-73 ガソリン自動車が登場するまで
 
 車輪は何時頃発明されたか確定できないほど、その歴史は古いが、それを走らせる原動力となると牛や馬にたよる時代がきわめて長かった。1769年、フランスの砲兵大尉ニコラス・ジョセフ・キューニョーが初めて蒸気の力で動く車の制作に成功した。しかし、蒸気自動車は重く低性能なうえ、煙や騒音を出すので、街中での使用には適さない。
 
  119 石版画「自動車の進歩」 1828年、英国で描かれた風刺絵、このまま自動車の普及を野放しにしておくと、町は車で溢れ、方々で事故が多発し、空は煙で覆われ、あたりは騒音に満ちる・・・・・と警鐘を鳴らしていて、何やら二十世紀の大都会の様相を予見しているかの様である。   118・120 セルポレ蒸気自動車とその駆動部分(仏) ガソリン発明後1891年、レオン・ボレーによって作られた蒸気自動車、彼は自動車発達のための幾つかの発明をしたパイオニアの一人である。この車は、コークス燃焼によるフラッシュ・ボイラーと高圧二気筒四馬力機関を持ち、最高時速25キロで走った。車体はパリの有名な馬車工房アンリ・ラブールデットの作。図120(頁写真左下)はその駆動部分で、ボイラーは後部に、蒸気エンジンは床下にある。運転に際しては後ろに釜焚きを乗せなければならない。
 
 
 
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p74₋75 ガソリンエンジンの発明
 
121(右頁全面) ダイムラー・パテント・モートルバーゲン(ドイツ) ダイムラーが自分のガソリンエンジンを搭載した初の木製モーター・サイクル。直立単気筒エンジンと、二段変速装置を備える。1885年8月29日、特許を収得、その年の11月、ゴットリーブの長男パウル・ダイムラーの操縦で、シュトゥットガルトのウンタートルクハイム近郊で、少なくとも3キロ以上の試走に成功した。最高時速12キロ。   122・123 ダイムラー・シュタールラートバーゲン(独) 親友ビルヘルム・マイバッハの助力を得て、ダイムラーが1889年カンシュタットで作り上げった四輪車。車名は「鉄輪車」の意味で、フレームも銅管製。これも操行に悩んだ末、自転車の前輪フォークを二つ並べ、一本の梶棒(かじぼう)で操作している。図122は、この車の後部に装着されたY型二気筒エンジン。四段変速装置。車重は260キロ。時速18キロ。   124 ベンツ・ピザピ(独) カール・ベンツが、1893年、完成した二車のうちの一つで、これより大型のものはビクトリアと呼ばれた。ベンツ初の四輪車で、すでにアッカーマン式の操行装置を持ち、円ハンドルを備えている。ピザピとは、フランス語で「向かい合わせ」の事で、乗客は後ろ向きに座る。石油ランプやフリンジの付いた天蓋(てんがい)は、まだ馬車の面影をのこしている。最高時速20キロ。
 
 
 
 
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p84-85 奇妙な試み
例えば六輪や八輪の乗用車。プロペラの推進力で走る車。はては歩く自動車から空飛ぶ自動車まである。
 
144・145 VWシュビムバーケン(独) フェルディナント・ポルシェ博士が1937年に完成した。フォルクスワーゲンは、第二次大戦後、文字道リ世界の大衆車として大成功を収めたが、戦前から戦中にかけては、じょうようしゃとしてほとんど作られずもっぱら、ジープ型のキューペルバーゲンと、その水力両用型のシュビムバーゲンとして、ドイツ車のために作られた。図144は、車体を船底型にし、後部にスクリューを付けたもの。このスキュリューは陸上では上方へあげておき、水上ではこれを降ろす。陸上で時速80キロ、水上で時速10キロ。1942年。   146・147・148 ルンプラー・トロッペンバーゲン(独) エドムント・ルンプラー博士は1910年代初期に「エトリッヒの鳩」(図77)と呼ばれる飛行機を設計したことで知られる空気力学の権威。その彼が第一次世界大戦後、きわめて進歩的なこの流線形車を設計、少数ながら生産販売し、自動車流線化に大きな影響を与えた。ルンプラーはこの未来的な流線型を可能にするため、自分の設計した複列W型六気筒エンジンを、客席の後、車軸の前に備えた。今日のレーシングカー、高性能スポーツカーに一般的なミドエンジン方式のはしりである。時速110キロ。
 
 
 
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p88-89  ビンテージ期の自動車
 
154 プガティ・タイプ40クーペ(仏) 自動車市場の名設計家の一人で、個性を極めて尊重したエットール・ブガッティの1926年の作品。タイプ35グランプリ、一連の高級高速車が知られるが、タイプ40は比較的おとなしい小型車、しかし操縦性や使用感は間違いなくプガティそのものだ。 四気筒エンジンで最高時速120キロ。ボデイはガングロフの作。   155 ランチア・ラムダ(伊) 元フィアットのレーシング・ドライバーだったピンチェンツォ・ランチアが独立して生み出した個性派の名車。1922年に完成したラムダは、モノコック・ボディやスライディング・ピラー式両輪僕立懸架、コンパクトなV4エンジンなどを持つ革命的な車であった。 展示されているのは1925製のモデルで、最高時速115キロ。大きさのわりに車重は1150と軽い。   156 メルセデス・ベンツSS(独) ビンテージ期のドイツを代表するスポーツ・ツーリングカーが、ボルシェ博士の設計したSシリーズである。一点もゆるがせにしない蒸気機関車のように骨太な設計は、まさにドイツ的である。SSのエンジンは六気筒7020CCという巨大なアルミニウムの塊(かたまり)で、225馬力で2トン近い車重を時速185キロで走る。   157 ホルヒ812/60PS(独) ゴットリープ・ダイムラーの長男パウルがホルビ社の主任設計家時代に設計した車。それまでのホルヒは中級車であったが、このホルヒ8から、ホルヒ社は高級車メーカーに転身する。アメリカでの流行にならって、直列八気筒エンジンを備えた最初のドイツ製大型自動車となった。最高時速100キロ。
 
 
 
 
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 p104-105 黎明期の化学実験室
 
  衰微の運命を余儀なくされた錬金術は18世紀になると、我々が現在「科学」と呼んでいるものに変わっていった。「物質の変化」に対して、それまではほとんど無視されていた「重さの変化」が、諸現象の理解にきわめて重要であるを初めて実験で示したのは、「現在科学の父」と呼ばれているラボアンジェであった。19世紀になるとウェーラーにより、尿素が合成され、有機化学の黎明期を迎えた。ドイツの生んだ大有機化学者リービッヒは有機化合物の元素分析法を完成するなど、有機化学を学問として成立させたのである。
 
 183 ラボアジェの燃焼実験の装置 集光レンズを二個組合せ、気密なガラス鍾(しょう)内のるつぼに入った物質を燃焼させ、生ずる気体の種類と量を調べる実験に使われた。ラボアジェはこの装置を用いて、宝石好きの貴婦人の前でダイアモンドを燃やし、ダイアモンドが化学的に木炭(すなわち炭素)に他ならないことを実証して見せた。   184 ラボアジェの電気閃光発生装置 ラボアジェの時代の化学には錬金術に由来する実験器具のほか、物理学で用いられた実験装置が盛んに使われるようになった。この装置もその一つで、中に空気と水素を詰め、電気火花で燃焼させ、硝酸が生成することを初めて確認した。しかし、空気が酸素と窒素から構成されているという結論までには至らなかった。   185・186 リービッヒの実験櫃室 ゲイ・リュサックを師とするリーピッヒは1825年ギーセン大学の正教授となり、大学構内の旧兵営を改造して実験室をつくった。この実験室は実験教育によって学徒を大量に育成する近代的科学教育施設の初めてであり、ドイツ国内のみならず、広く全世界から多くの若い科学者が雲集して彼の指導を受けることなった。図185の机上にには有機化合物の元素分析装置が、図186の机上には二個のリーピッヒ冷却器と気体計量器が展示されている。リーピッヒはこの装置を用いて、雷酸銀(雷酸水銀?らいさんすいぎん=化学式Hg(ONC)2水銀を硝酸に溶解し、エチル・アルコールを加えて作る無色の結晶。乾燥状態ではわずかの衝撃・摩擦でもよく爆発するので、以前は揮発材として雷管などに発火具に用いた。(雷汞〈らいこう〉広辞苑より引用)の元素分析装置を用いて、ウエーラーの発見したシアン酸銀と同じ組成をもつことを見出した。   187 19世紀の薬局の炉 薬草の抽出・乾燥・浸剤(しんざい)・煎薬(せんやく)などが行われた炉(ろ)。中央下部の蒸気釜で原料が過熱され気化され、冷却されると、蒸気は凝集(ぎょうしゅう)して、水・芳香(ほうこう)水・アルコールなどの蒸留液となり、左下部の容器に移される。   188 16世紀の薬草炉 薬草を蒸留して薬を作り出す。後方には当時の薬屋の作業場の様子を示す壁画が描かれている。
 
 
 
 
 

 
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p132-133 楽しい自動演奏

 楽器というものは、音楽を創り出すための道具である。だから、決められた曲を奏でる自動演奏器は、楽器というより、おおきな意味で機械ということができる。特に18世紀から19世紀にかけての近代工学の興隆と関連して、機械としての性格が強調され、非常に精巧なものがつくられるようになった。数々の自動演奏器には、当時の人たちの夢とユーモアが込められ、観客は思わず頬が緩んでしまうのである。 
 
 244 ベロニウム トランペットとティンパニーを機械仕掛けで演奏する自動楽器。まず、中程の箱の内部にしかれられた金属筒のコントロールによって、四本のトランペットが自動的に一定のメロディを奏し、同時にパチが、脚部のティンパニーを打ち鳴らす。1805年、ドイツのドレスデンのカウフマンがつくったもので、行軍中のナポレオンがこの楽器の演奏を耳にし、敵軍の来襲と聞き誤った、というエピソードが残されている。   245・246 フプフェルド・ホノリスツト・バイオリン 1912年につくられた自動楽器で、オルガンと三台のバイオリンが組み合わされている。キイの操作によってオルガンが奏されるばかりでなく、空気によってバイオリンの弦が機械的に抑えられ、自動的に演奏を始める様に工夫されている。 バイオリンの胴の中程に金属の輪が見えるが、これが一種の無限弓として回転し、弦をさすって音を発するわけである。いかにもドイツ人らしいメカニカルな作品といえるだろう。
 
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p136-137 オルゴールと音楽人形
 
 機械装置によって音楽を自動的に演奏したり、それにつれて人形が踊りだしたり、
行進を始めたりする工夫は、古くルネサンスの頃から試みられてきた。
 
 252 シンフォニオン 回転する円盤に沢山の穴があけられ、そのコントロールによってメロディが奏せられるよう工夫された一種のオルゴール。南ドイツのユンクハウス社の作製。この写真では、ヨハン・シュトラウスの「ウイーン気質」が奏でられるようセットされている。   253 人形付きオルゴール 音楽が奏されると、風車が回り、農婦が踊りだし、井戸のポンプが水を汲み、ヤギや人形達が動く、子ども向けのものではあるが、大人でも楽しめるし、一種のユーモアも感じられる。20世紀に入って、ドイツで作られた。   254 鳥オルゴール 19世紀はじめに作られたオルゴール仕掛けのオルガンである。回転する金属の筒に付けられたトゲの操作によってパイプに連動し、オルガンの原理で鳥がさえずる設計。   255 バンジョーを奏する黒人 18世紀にスイスの音楽人形。演奏に連れて、ひげを生やした黒人の頭や目・口が動く。衣装も各部が精密に作られている。   256 道化の音楽 ドイツで作られた音楽人形。人形の写真右に見えるネジを回すと、音楽に合わせて道化が楽器を打ち鳴らす。

 
 
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p138-139 オルゴールのいろいろ
 
257~260 いろいろなエオリアン・ハープ 19世紀、ヨーロッパで大流行した。弦を一定の音程に整え、窓の外に取付けておくと風によって弦が振動して,爽やかな音を奏でる。当時の詩人たちは、この音色を賞(め)で、楽しみ、数々の詩に残している。 図257・259のエオリアン・ハープは外壁に掛け、図258は窓の外に置く、図260は、吊り下げ型。   261 オルゴール時計 18世紀末の木製。内部にオルゴールのメカニズムの仕掛けが見える。時計の針に連動、時刻に合わせ音楽を奏でる。   262 シンフォニオンの内部 1905年ドイツ製。ゼンマイ仕掛けの簡素だがいかにもドイツ的骨太な味わい。   263 43本のパイプの付いたオルゴール 回転する金属の筒についたトゲが音程の高低に連動する。1800年頃のもの。
 

 
  
 
 
 
次回の予告 
世界の博物館シリーズ14
『スウェーデン デンマーク 野外歴史博物館」 
お楽しみに・・・! 

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世界の博物館8 ロンドン科学博物館 [本と資料]

 前回予告通知にて、私のお好みのタイトルの本です・・・。ということで、蒸気機関車でした。まさにロンドン科学博物館は蒸気機関の発祥の地でもあります。これが本年最後のブログ発信です。来年もよろしくお願いします。
 「世界の博物館」 シリーズの次回は、「ミュンヘン科学博物館」(ドイツ)です。楽しみに? 
 
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箱表紙(左・表面 右・裏面)
 
 蒸気機関車と機械文明の夜明け
ロンドン科学博物館
 
渡辺正雄編
発行所 講談社  昭和53年4月第一刷発行
 
 
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ロンドン科学博物館  扉
 カット絵(左より) 1828年に作られた「アゲノリア号」(ヨーク鉄道博物館で最も古い蒸気機関車。 ニュートンの反射望遠鏡(複製品)。 十九世紀末の石油ランプ。 ジョージ・アダムズ制作の18インチの大地球儀。
 
 
 
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 館長メッセージ マーガレット・ウェストン ロンドン科学博物館長
  ロンドン科学博物館は、いぎりすの国立科学技術博物館です。名前は科学博物館となっていますが、展示は、純粋な科学関係よりも技術関係の方が広い区域を占めています。
 この博物館の起源は、1851年にロンドンのサウス・ケンジントンで開催された万国産業博覧会までさかのぼります。
その時収集された品々を基にして1857年にサウス・ケンジントン博物館が出来ました。
 その後、科学技術関係のコレクションを芸術方面のコレクションから分離して、科学博物館が開催されました。
現在の科学博物館の建築物のうち、一番古い部分は、1828年以来のものですし、最新の部分は、1977年です。
 
目次 
本書と、このブログ(極端な抜粋のため)とは一致していません。 
 
産業革命を進めた科学と工業 
蒸気機関車から地震計まで、世界一の産業革命博物館 
 
第❶室
蒸気機関車の歩み 
 
 
第2室 
帆船 の世界
軍艦プリンス号/帆船、栄光の時代/帆船を造る/船の歴史/東洋の船/捕虜が造った軍艦
七つの海の栄光の航跡
 
 
第3室
動力と機械
 蒸気機関 /蒸気機関車発達/紡績機・発達の足あと/初期の機械工場/家内工場と道具/旋盤の歴史
蒸気時代の幕開き 
 
 
第4室
火と明かり 
ロンドンの明るさ/華麗なランプの世界/火をつくるデザイン
「電気」を征服するまで 
 
 
 
第5室
自然をさぐる 
天球儀と地球儀/ 価値ある天体望遠鏡/天文台の出現/天体をはかる/魔鏡/顕微鏡の世界/ジョージ三世のコレクション/他
宇宙からの響き 
科学革命の旗手 
 
 
 
 
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蒸気機関車の歩み
  
 
 
 
 
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SLの祖父たち
3 カムバックしたサンパレイユ号 1829年に製作されたサンパレイユ号は、レインヒルの競争に敗れたがリパプール_マンチェスター間を走った。のち、改造されて、1844年から鉱山の水揚げポンプと送風装置を動かすのにも用いられた。1863年には、また元の機関車に復元されて博物館に入った。後ろの機関車はサドル・タンク・ロコモティブで、工場用に作られた比較的小型の蒸気機関車の典型で同一の型のものは数千台つくられた。  
4 スチーブンソンのロケット号 レインヒルの競争に優勝したロケット号は、1844年まで実用された。ピストンが直接車輪を回すという簡単な仕組みで、多数の煙管を備えたボイラーは熱を水によく伝えるなど、合理的につくられていて、その後のSL設計の基本となった。1862年に博物館入りし、100年もの間、SLの歴史を語り続けてきた。
 
 
 
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p18-19 SLの古典時代
 5  レインヒルの競争  歴史的光景を描いたパネルの手前にこの競争に参加した二つの蒸気機関車のモデルが置かれている。右は優勝したロケッ号(図4)。左、ノベルティ号。  6 トレビシックの発明 鉄道の上をまだ馬車が走っていた1804年、トレビシックは、大きなはずみ車と一つのシリンダーからなる蒸気機関車(右手前)をつくった。高圧の蒸気を用いて、蒸気機関の効率を高めることに成功した。彼の力によって、蒸気機関車は小型になり、機関車にも使われた。右奥にあるのは、トレビシックが4年後に作った。〈キャッチ・ミー・フー・キャン〉(捕まえられるなら捕まえてごらん)の、第一号のモデル。 7 幼年時代の機関車 右はジョージ・スチーブンソンの初期の機関車。中央奥は、1828年に、息子のロバート・スチーブンソンの会社で制作されたもので、この型はフランスに二台買いとられた。
 
 
 
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 p22-23 世界にひろがるSL
11 インドの貨物列車 イギリスの植民地だったインドには企業家たちの思惑によって、さまざまな種類の機関車が導入された。東インドを走っていた標準的な貨物列車で、1923年にノース・ブリティシュ機関車会社が製造した。モデルは、全長1・7メートル、1924年、インドのジャマプールで作られたもの。下はフランスの北部鉄道の旅客機関車で、四つのシリンダーをもち、1901年に製造した。  12 パリで作られたSL  1842年から47年にかけて、クランプトンが設計した特許に基づいてパリで製造された蒸気機関車のモデル。大きな動輪と重心をできるだけ低く設計が特徴。1849年からフランスの鉄道で旅客列車牽引用として使用された。壁にあるプレートはキューバの鉄道で使用された時のもの。  13 坂道に強いSL 1837年、フィラデルフィアのウイリアム・ノリスが考案した蒸気機関車のモデル。動輪は一輪で、前輪部は四輪車の回転ボギーになっていて、急な坂道、急カーブのある区間用として使用された。  14 アメリカとフランスのSL うしろにあるのは1875年製のアメリカの蒸気機関車のモデル。手前は。 フランスで初めて作られた蒸気機関車のモデル。セント・エチェンス=リヨン鉄道を走り、多管式ボイラーが取り付けられていることで有名。平坦なところでは70トンの荷物は運ぶことが出来た。
 
 
 
 
 
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p28-29   蒸気自動車の時代 
 23 元祖蒸気自動車 中央はフランスの蒸気自動車の製作者キニョーが設計したもので、1771年パリの兵器工場で製造された。キニョーは1769年に世界で最初の蒸気自動車をつくり、四人の人々を乗せて、時速3・6キロで走らせた。左下のモデルは、イギリスのマードックが、1786年頃につくった蒸気自動車。この二台の実物はそれぞれ、パリの技術博物館とバーミンガムの博物館に現在も保管されている。    24~27 蒸気牽引自動車の色々 図24~26は、いづれも、強力な牽引力を誇る蒸気自動車を製造してきたファウラー会社製作のもの。 図24は1933年に作られた最後の型で、「シュープリーム」(最高)と命名された。 図25は、1910年製で、ガパナーとよばれる回転球によって、蒸気の量を調整する調速器をもっている。 図26は、1906年につくられ、「ライオン」クラスといい、10馬力に相当するもの。  図27は、1920年にラストン・ホーンスピィ社が製造した7馬力の牽引車。路上を走るための固いゴムのタイヤがあり、20トンのものを引く力があった。これらの蒸気牽引自動車は、あまり速度は出ないが、路上で貨物を引っ張るために用いられた。 

 
 
 
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p32-33  市街電車と地下鉄
33 グラスゴーの市街電車 1901年当時つくられた初期の市街鉄道は、鉄道馬車を電車に改めた型一階のものであったが、1910年頃には二階のついたものになり、、さらに約10年後には車体が長くなり、入り口と階段の部分が写真のもののようになった。1927年に改良がくわえられた最終標準型で、グラスゴー市では、1962年9月4日に路面電車が廃止されるまでこの型のものが走り続けた。図34・36・37の模型。   34 無軌道でも走った蒸気軌道車 グランサムの特許よる設計で、1872年に作られた。普通の路面をはしるには輪縁(車輪タイヤ)のない大きい方の四つの両輪ではしったが、車輪のうち一組は動輪で他の一組は舵取り用であった。レール上を走るときは、輪縁のついた小さい方の車輪をレバー仕掛けでレールに載せた。   35 地下鉄にも使われた電気機関車 1890年からロンドン市とその南部で走ったもっとも初期の地下鉄にも使用された実物。   36 二階付きのトレーラー 1879年製の軌道車。馬が引く鉄道馬車の改善が加えられ、蒸気軌道車がこれを引いて走った。イギリスでは、市街が狭いことや都市と都市の間の交通に軌道車を用いることが少なかったため、欧州大陸と違いトレーラー軌道車が少なく、この車は、稀な存在だった。   37 ロンドンの二階電車 1905年から6年までにこの型の電車が26台製造され、1930年から31年までしようされた。それ以来、ロンドン市内では屋根のない二階電車は見られなくなった。

 
 
 
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p38-39    歴史を飾るSL
 
52 コロンパイン号 1845年製。直径1・8メートルの前輪を持つ標準型クルー型蒸気機関車の初期のもの。1902年まで使われていたが、製造当初には、写真のような機関士室は付いていなかったので、これとは違った外観をしていた。博物館の開館にあたり昔の通り、機関車ロンドン=ノースウエスタン鉄道の色に再塗装され、黒地に赤とクリームとグレーの鮮やかな線が入っている。
54 栄光に輝く 1875年、エドワード・フレッチャーの設計により製造されたノースウエスタン鉄道の蒸気機関車。同型のもの。1872年から10年間に55台がつくられている。   53 アトランティック・コースト・エクスプレス号 オリバーー・パリーの設計になる蒸気機関車。1948~9年につくられ、イギリスの南部で活躍した。空気の抵抗を極力抑える設計のため、個性的な外観を呈している。力は強く、加速性能も良かったが、石炭とオイルの消費が大きかったといわれている。ターンテーブルに置かれ、ボイラー室の機関の一部が断面になっていて、内部がよくわかる。   55 二段膨張式の蒸気機関車 二段膨張式は主にフランスで作られた型で、1902年にイギリスで最初に成功したミッドランド鉄道のもの。1951年まで現役で活躍したが、その後ヨークに移ってからも、何度も火が入れられている。  56 インターミディエート490号 グレートイースタン鉄道会社が、幹線以外の線には、幹線で古くなった機関車を使わずに、専用のものを用いるという方針を立て、そのために製造した機関車である。1895年製。1891年から1902までの間に100台製造され、広く使用されていた。
 
 
 
 
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 p40-41   歴史を飾るSL 2
 
 57 マラード号の碑(プレート) 1938年につくられたSL世界スピード記録の記念碑。   58 マラード号の機関室内部
59 SLのスピード王_マラード号 1938年製「マラード号」A4型4468番、急行列車の速度を上げるために造られたので、空気の抵抗を減らす流線形にしてある。1938年7月3日、この蒸気機関車は、七両の客車を引いて、時速202・77キロメートルという速度記録を樹立した。蒸気機関車の速度としては、この記録は破られていない驚異的なものである。   60 ヨーク博物館のメインホール 中央に二つのターンテーブル(転車台)が据えられており、かつて機関車だった仕組みを生かして,さながら操車場のようである。一方には客車,もう一方には機関車が各々放射状に展示されている。
 
 
 
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66 ビクトリア女王の専用車(内部) 女王が国内各所を訪問する時に乗られた客車の内部。最初は、六輪の車両二台を通路で繋いだ構造になっていたが、五年後に両方の車体を一二輪のボギー車体にうつして、一体としたものである。ビクトリア女王に相応しく贅を極めた装備であるが、百年以上経った今日では、絹布の傷みが酷くなっているという。1869年製。
 
 
 
 
 
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p94-95  蒸気時代の幕開き
       風車と水車のある風景
図79~181・183は、人力で機械装置を動かして行う作業の例えを図説したもので、いずれも西洋の事例である。
  179 水を組み上げる手動のポンプ(16世紀半ば)。   180 足踏みポンプ(16世紀半ば)。   181 足踏みによる粉ひき(16世紀末)。
 182 粉ひき臼を牛が動かす(17世紀初め)。   183 人力起重機(16世紀)。   184 坑道を換気するための鞴(ふいご)を馬が動かす(16世紀半ば)。   185 粉ひき臼と砥石(といし)を馬が動かす(17世紀初め)。 

 
 
 
 
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p96-97  蒸気時代の幕開き2
図186・187・189の水平型風車の図は、イスラム式のものを改良した十六世紀末のヨーロッパでの考案である。必ずしもこの通りのものが実用されていたとは見られない。ヨーロッパの本来の風車である垂直型風車として最初に羽化われたのは箱型風車(図190)であった。
186 粉ひき用の水平型風車(16世紀末)。   187 粉ひき用の水平型風車(16世紀末)。   188 粉ひき用の箱型風車(16世紀後期)。   189 粉ひき用の水平型風車(16世紀末)。   190 粉ひき用の箱型風車(16世紀後期)   191 水を汲み上げる塔型風車(16世紀末)。   

 
 
 
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p101-102  蒸気時代の幕開き3
 
197 上掛け水車で動く落としハンマー(16世紀半ば)   198 船水車(16世紀末)   199 1600年頃のある水車小屋    200 下掛け水車を用いた製紙場(17世紀半ば)。   201 タービン水車による粉ひき(17世紀半ば)   202 セイバリーの火力エンジン 1702年   203 ニューコメンの蒸気機関(18世紀はじめ)   204 ニューコメンの蒸気機関(18世紀はじめ)   205 ダッドレー城近くに建設されたニューコメン蒸気機関(18世紀はじめ)

 

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世界の博物館1「アメリカ歴史技術博物館」 [本と資料]

 このところ、週一(シュウイチ〉どころか、間延びに遅れがちで申し訳ありません。正直言うと、頑張りが効かない年齢(80歳に近い)でのんびりつくっています。だったら読者に迷惑をおかけするので、そろそろ辞めたらという周囲の助言?もあります。一方ではクダラナイ?ブログがある中で比べたら必要とされる人もいるので続けたら・・・の意見もあります。で、私としては今のところ、プロバイダー独自のこのブログ・アクセス解析が判断基準としています。尚、読者の方々での直接のご意見もお待ちしています。

 今回は、かなり古い出版物ですが、かえって貴重な資料で、写真が豊富で、豪華?!で、私の場合は長年仕事(イラストレーション)の「座右の書」としてまた、ただ眺めるだけでも楽しめるシリーズ本です。こんなシリーズの全集は、今後とも中々お目にかかれないかもしれません!(平均180ページ写真・図版)。それ程、普段は目立たなく本棚に鎮座?していたので今回は取り上げてしまいました。(これから数回に亘って、このシリーズを掲載の予定です。ただ困ったのは、家庭用プリンターには、ギリギリのサイズでブログ内では少しはみ出すのでご了承ください)
 
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アメリカ歴史技術博物館」 表紙(箱本ケース) 
 
世界の博物館1
アメリカ歴史技術博物館
昭和53年1月 第一刷発行
発行所 講談社  Ⓒ講談社 1978 Printed in Japan
 
 
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扉 「フロンティアとアメリカの文化」
(右からカット絵)タバコ屋の看板人形。油油ランプ。ニューイングランドの画家が絵具入れに使った奇妙な小引出し。
歯医者の看板。消防団の消火バケツ。 
 
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館長メッセージ 目次
 
 ブルック・ヒンドル アメリカ歴史技術博物館長
現代生活に直結する遺産の数々をごらんください
 国立歴史民俗博物館は歴史博物館であり、ワシントンのスミソニアン協会(インスティテューション)の一部門です。本書には主にアメリカ合衆国の歴史を象徴する遺産が、美しくしかも克明に描写されています。それがもっともはっきり表れているのは、日常生活に関係の深い、部屋、室内装飾、家財道具、建物などです。我が国の歴史は、諸外国に比較すればまだ短いのですが、その人口構成や文化はいろいろな国から移入されてきたものですから複雑であり、このような複合体としての国家のさまざまな歴史の姿がこの博物館に展示されております。  ・・・・・以下省略・・・・・
 
 
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p13  アメリカをつくった文化遺産
 ハドソン川の河口にある巨大な自由の女神は有名だが、自由の象徴としてのこのめがみは、あめりかの国民的偶像であり続け。この木造は二十世紀初頭までハドソン川に就航していたメリー・パウエル号の装飾品。
 
 
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61 ある富豪の書斎 1890年頃、フィラデルフィアの銀行の頭取であったB・B・コメジィスという富豪の住んでいた家の書斎の内部である。十九世紀末、といえば丁度イギリスのビクトリア時代にあたり、その贅沢な趣味はアメリカの上層社会にもつ良い影響を及ぼした。部屋の中の調度品のどれをとってみても、きわめて装飾的でしかも凝っている。アメリカ資本主義の本格的上昇がここに象徴されているようだ。
62 郊外住宅の食堂 都市が大きくなるにつれて、都市周辺には郊外住宅がつくられ、こうして通勤という生活スタイルがはじまった。これはニューヨーク郊外ブルックリンの中流郊外住宅の食堂の内部。家具はこの段階ではすでに大量生産期にはいっている。
63 南部の小作人の家 アメリカ南部は綿やたばこ栽培の大農場経営をその経済の基盤としていた。農場経営者は、『替えと共に去りぬ』にみられるような大邸宅に住んでいたけれども、小作人の住居はきわめてそぼくなものだった。これは南北戦争後につくられたメリーランド州のたばこ小作人の家。古材を骨格にした一種のバラック住宅である。
64 十七世紀の民家の骨組み 植民地時代には、専門の建築業者はいなかった。大工は材木を刻んだが、それを組み上げるときには地域社会の人たちがみんなで手を貸した。これは、マサチューセッツ州のイブスウイッチに十世紀の終わりごろ、G・ハートという開拓者がつくった典型的な民家の骨組みで、アマチュア精神が躍動している。
65 粉ひきの家 十七世紀から十八世紀にかけてのアメリカの民家のなかには、北ヨーロッパの丸太小屋の建築技法を使ったものも多かった。図64でみたのは、柱と梁の工法だが、デラウェア州で1730年代、あるいは40年代に建てられたこの家は丸太小屋工法の典型である。この家にはA・マクドナルドという粉ひきが住んでいた。
 

 
 
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p42-43  (上欄)ストーブのさまざま
70 ストーブのさまざま 北部アメリカの冬は寒い。イギリスからの移民たちは、壁面に暖が備えたが、ドイツ系の移民たちは鉄製のストーブを部屋の真ん中に置いて、暖房と同時に湯沸かしや調理に使うことを考えた。とりわけ1725年以降、ペンシルベニア州の鉄銅業が盛んになるにおよんで、ストーブは工場生産の軌道にのって家庭に普及しはじめた。1742年、ベンジャミン・フランクリンは、煙突に入る前に煙をストーブ内で循環させて熱効率を高める、ベン・フランクリン型ストーブを発明した。(上・写真中央の茶色の四角いのがそれ) 
 
(下欄)照明器具のさまざま
71~80 照明器具のさまざま 照明の燃料としては、松脂(やに)、魚油、鯨(げい)油もたくさん使われていた。やがて石油へと代わる。右から、71 ブリキランプ 十八世紀の終わりに使われたもの。燃料は鯨油。 72 ランタン(1) ブリキに穴を開けただけの粗末なもの。 73 ランタン(2) 右とお同じく、中には獣油ろうそくを入れる。十八世紀から十九世紀。 (上図)74  鉄製ランプ 十七世紀に使われた素朴なランプと油受け。 (下図)75 ろうそく立て 十九世紀の鉄製品。 76 真鍮(しんちゅう)ランプ。 十八世紀はじめ。オランダ移民のもの。 77 木製ランプ台 十九世紀。ペンシルベニア州のもの。 78 ろうそく台 錫合金製で左右セットのうちの一本。 79 拡大鏡付きランプ 十九世紀なかばの作品。 80 針金燭台 1650年代のマサチューセッツで用いられたもの。 
  
そして1878年エジソンやスワンによって白熱電球が発明されることで幕を閉じる。 
 
 
p46-47 おもちゃあれこれ 子どもにとって、おもちゃはどこにでも転がっている。石ころ一つでも子どもは遊びの道具にする。しかし親たちも子どもにおもちゃをあたえたがった。開拓時代の親たちは、図87のような、生活に密着した手づくりのおもちゃをつくった。親が本物の牛を飼育しているのを見ながら子どもは、おもちゃの牛をくびきで遊びを発見したのであろう。
 図84~86は既製品のお人形。輸入品で値段が高くても、可愛い子どものために買ってやるのが東西を通じて変わらない親心である。だが、アメリカの子どもは、小さいうちから倹約と貯蓄を美徳として教えられる。図88・89の貯金箱は、そうした倹約道徳に結びついたおもちゃというべきだろう。

 
84 物売り人形 街頭の物売り人形。十九世紀末。英国製。 85 陶製人形 フランス製の陶器の人形である。1870年頃のもの。 86 貝殻(がら)人形(左右2体)貝殻を貼り付けてつくった。十九世紀。アイルランド製。 87 くびきの模型。おそらく父親の手作り。開拓地のおもちゃ。88 貯金箱(1) 上のテーブルにコインを載せて下の紐を引く。 89貯金箱(2) 鉄砲からコインを撃つと熊が首を出す。 
 
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p46-47  「子どもの世界」
 95~95 遊びそびあれこれ 子どもはいつでも体を動かして活発に遊ぶ。彼らは、自分たちの体を動かして、いろんな世界を想像し、その中で新しい発見と想像を楽しむのだ。その遊びの中には、さまざまなごっこ遊びもあるし、スポーツもある。時にはスリルを味わいながら、そして時には我を忘れた陶酔に浸りながら、子どもたちは無限の遊びの世界を開拓した。
 広い土地と、果てしない可能性にとりまかれたアメリカの子どもたちは、その点で、世界の他の国の子どもたちより幸せであったのかもしれない。
90 学校ごっこ 1876年の制作。 91 消防ごっこ 積木の消防車。1860年。
92 回転木馬 アメリカ文化を象徴する展示。 93 木馬 十九世紀後半の作品。左右約1メートルで、もちろん子どもが跨り乗れる。 94 木馬 簡単なお馬ごっこ(棒にまたがり遊ぶ)。十九世紀はじめ。 95 スケート用長靴。1810年。コネチカット州。
 
 
 
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p50-51 アメリカ式生活道具今昔
 
(上中央イラスト)121 100年前の台所風景 燃料は石炭だが、都会では湯沸かし器や水道が普及していた。 
(右欄写真)122・123 オーブン今昔 肉のローストはアメリカの食卓文化のなかで見落とすことが出来ない料理の一つだ。だがローストをつくるためにはオーブンが必要である。図122は十七世紀後半、イギリスのバイドフォードで作られ、アメリカに輸入された耐火土器のオーブン。これをそのまま、暖炉の中に詰め込んで使うこともあった。図123は1915年、ウエスチングハウス社製の調理では、ガスで使うより電気を使う方が多く、今日でも、一部の地方を除いてたいていの家庭での台所でもあるレンジは電熱利用であろ。
(中央欄)124・125 調理器具あれこれ 図124(上・下対)は、野菜をポウル(下)に入れ、柄のついた半月型の刃物で上から強く押し刻む。十九世紀はじめに使われた野菜刻み器。図125 大型化の肉類も一緒の手廻し動輪刻み器。(左欄)ミキサーの進化。ミキサーはアメリカの発明品である。図126 弓型式(弓を押すと、弦が棒に巻付き廻す仕掛け。十九世紀はじめに一般家庭で普及した。 図127 初期(1920年代)の電気ミキサー。現代から見ると大げさに見えるが、当時はこれが限界の小型化モーターだった。
 
 
 
 
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p52-53 生活道具今昔 2
(右頁上欄)128・129 ワッフル・メーカーの進化  (右頁下欄)130~133 アイロン今昔  図130  開拓時代の農家でつかわれた。 図131 1900年頃のもの。いづれもストーブの上で熱して使われた。 図132は、ガス利用。 図133 電気アイロン。
(左頁上欄) 洗濯の工夫 137 洗濯絞り機。 図139 本格的電気洗濯機・第1号機 メイタグ製(1915年)
(左頁下欄) 140 141 ひき肉機械 図140。手廻し式ひき肉機械。周りの箱縁に刃があり肉が刻まれる。(1830年頃北西ヨーロッパから輸入された) 図141 現代とさほど変わらないひき肉機械。(機械の特許は1859年に出されていた)
 
  
 
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p74-75  鉄道(SL)
 
 207・208 ジョン・ブル号 その名も示すように、これはイギリスからの輸入品で、1831年から65年までニュージャージー州のカムデン・アンポイ鉄道会社で使われていた。イギリスに比べて初期のアメリカの鉄道路線は粗末だったから、車輪をはじめ、いくつかの部品をとりかえたり改良したりして走った。その鉄道会社はジョン・スチーブンスの創立にかけたもので、最も古い鉄道の一つだった。
209 210 客車 上のジョン・ブル号の頃の客車である。一車両あたりの座席定員は48人であって、車体は木製である。この種の車両の建造は1830年代からはじまった。車両はそれぞれ独立のパネルで支えられている。窓は固定式で、換気用の窓は上方にあけられている。内装は簡素だが丁寧に作られており、天井の曲線も美しい。十九世紀はじめのこれ等の汽車は、馬や馬車にかわる革命的な輸送手段としてアメリカの交通史に大きな衝撃を与えたのであった。
211 ジュピター号 これはアメリカ国産機関車である。製造にあたったフィラデルフィアのボールドウイン社は、元々は繊維機械のメーカーだったが、既成の動力機の欠点を補うべく、新たなエンジンを開発しているうち、蒸気機関車の設計にまで手を伸ばすようになった。ここに展示されているのは1879年製のもので、サンタクルツ鉄道会社の路線を走っていた。西部劇でお馴染みのアメリカ蒸気機関車の一つの傑作である。芸術産業の展示。 
212 鉄道ポスター(1) 大陸横断のユニオン・パシフィック鉄道が1869年につくったポスターである。ネプラスカ州オマハを中継地として東海岸からサンフランシスコまで、食堂車や寝台車を付けて乗客に呼びかけた。西部海岸地方に金や銀を求めて出かける人々もこの鉄道を使った。
 

 
  
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p88-89  市内交通の主役
 
253 ケーブルカー レールは、狭軌で、この牽引車で一両ないし二両の車を引っ張った。車体は、カリフォルニア州で製造され、坂道の多い都市で使われたがここで展示されているのは、シアトルで1888年から1910年頃まで使われていたもんのです。同種のケーブルカーは、サンフランシスコやシンシナチでも使われていた。
254 路面電車 セントルイスのアメリカン車両会社で作られたこの電車は1910年頃まで、アメリカの首都ワシントンの市街で走っていた。しかし、法律で架線を禁じられていたため詳細は不明。
256 初期の市内バス ロンドンに近いボルチモアのチャールス街で、1917~22年まで運行されていた。
257 バス乗車券 つまりトークンを購入してからバスに乗るのであった。(二十世紀初頭にアメリカ各地で使われた) 
 
 
  
 
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p96-97  「自動車王国のクラシックカー」 
 
273 ノックス 初期の三輪自動車(1899年)。 274 オートカー 奇妙なハンドル(1901年)。 275 電気自動車 最高時速30キロ。(1914年)。 276 三輪車 後輪が一つの実験車。(1899年)。   277 T型フォードの操縦席 機能第一で、余分なものは一つもついていない。  278 T型のボディー 1956年に修復した時のもの。 279 シアーズP型    通信販売のシアーズ・ローバック社の配達車。(1911年)。 280 キャデラックA型 キャデラック社の第一号(1903年).   281 オールズ 四人乗り、時速16キロで走った。(1897年)。  282 フランクリン (1902年)。当時1250ドルの高価な車。 283 ビアース (1901年)。平均時速 19キロ。 284 ウィントン (1898年)。ウィントン社の市販第一号。
 
 
  
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p125-126   「印刷と新聞」
 
361 フランクリンの印刷機 1726年、ベンジャミン・フランクリンは、ロンドンのジョン・ワッツ印刷工場の職工として働いていた。アメリカで成功したフランクリンは40年後の1768年にロンドンを訪れ、かれがかつて使っていた印刷機を感慨深くながめた。その印刷機は1842年、アメリカに運ばれ、ここに展示されている。
362 十九世紀の印刷機 奥の方に見えるのは1819年製のウエルズの発明した印刷機である。手前のは、1865年製のコロンビアン型印刷機。大型で重量級のこの機械はヨーロッパでも特許をとっている。 363 カード印刷機 小型の印刷機である。ロールになった紙を使い、カードや切符の印刷に用いた。1852年に、ジョージ・ゴードンの発明したもの。 364 ラメイジ印刷機 1820頃、アダム・ラメイジのつくった機械である。ラメイジは初期の印刷機のメーカーとして有名な人物であった。 361~367 アメリカ人と印刷文化 アメリカ人は、印刷物の高揚に早くから着目していた。沢山の人に意見や情報を伝える手段として、印刷物に勝るものはなかったからである。とりわけ、広い国土に散らばった人々が同じ情報を分かち合うのには印刷物ほど効率が良く、かつ、確かなものはない。政治家たちが、まず印刷物の利用を考えた。選挙民に政権を訴えるためである。 アメリカにおける最初のマス・メディアは、そういう政見パンフレットであり、新聞というものも、政治的宣伝の道具としてスタートした場合が多い。実際、1840年の大統領選挙の時に、すでに100種類を超える政治的印刷物が飛び交ったという。今日、ラジオやテレビのような視聴覚文化のまえに、印刷文化はいささか影はうすく見えるが、コミニュケーションのメディアとして健在なのである。 365 印刷工房 1860年頃の、小さな印刷屋の復元である。何でも手軽に印刷するこういう印刷屋があちこちで店開きした。この博物館では、当時の模様を実演しながら、入場者にできあがった印刷物を売っている。使っているのは、1829年製の、ワシントン印刷機と呼ばれるもの。 368・367  初期のグラビアとオフセット 図366は定期刊行物ではおそらく初めてと思われる四色グラビア印刷(凹版)、1908年。図367は1902年のオフセット印刷機(平版)によるビールのポスターである。
 
 
 
 
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p136-137  「ラジオ・映画・テレビ」
 
(右ページ)393 放送と政治 アメリカで初めてラジオ放送が行われたのは1920年であった。この新しい発明は大衆の間に広がった。写真右側は1930年代の受信機。 394 蓄音機 トマス・エジソンの蓄音機は1877年12月に発明され、そして特許を得た。ここに展示されたのは第一号機である。しかし、再生された音が貧弱なうえに、蝋管への録音には多くの技術的困難があったため、このままのかたちでは実用化出来なかった。 395 ベル式録音機 1887年にベルとティンターのつくった録音機である。口述筆記用というのがその主な目的であり、一般に市販された。この機械を動かす動力はペダルであって、丁度ミシンを動かすのと同じやり方で操作された。かなりの需要があったという。 396 録音の進化 左上は1897年にバリーナーのつくった手動式蓄音機、そして右下はその1899年型。この時から、ディスクが実用的に使用されはじめた。左下にあるのは、1898年にグラフォフオーン社で制作した蓄音機。録音した時と同じ音量で再生できた。
(左頁分)397 ラジオのシンボル ラジオ受信機(1924年製)が大量販売時代に入ると、RCAは有名なニッパーという犬を広告に使った。それに対抗したのがクロスレー社のこのバップという犬の人形である。 398 ミジェット・ラジオ(1936年製)スタイルが洗練された。ゼネラル・モーターズ製のミジェット型。 399 マイクロフォン 放送用マイクにも歴史がある。左にあるのが1920年最初の放送に使用されたもの。右側は1924年にNBC放送が使っていたもの。
400 初期のテレビ 世界で初めてテレビの実験放送に成功したのは日本の高柳健太郎だが、アメリカでは1941年からテレビ放送がはじまった。これは1940年にRCAのつくった受像機。ブラウン管がやたらに小さいのが面白い。 401 覗きめがね 静止画像の連続写真を次々にめくって動画にする、懐かしいのぞきめがね。1895年以来盛んになった。後ろに見えるのはニュース映画館で、何時も昔のニュース映画を上映している。 402 幻灯(燈)機 1890年につくられたこのプロジェクターには三つの映写窓があり、一つの画から次の画にスムースに移行したり、二つの画を重ねたりという映写効果を上げることができた。
 
 
 やっと一冊の本「アメリカ歴史技術博物館」が終了?しました。それというのも、苦手?の文字入力(本書に近い小文字と太文字を使い分け?して時間ロス! さらに、はじめは8枚程度で収めるつもりでしたが、こんなに面白い内容がモッタイナイ!?と、ついつい欲張って掲載してしまいました。これでも、本当は、あれもこれもと惜しげに省いたのです!。読者の方でこんな本『厭じゃ!』という方は、どうぞ、暮れでお忙しいので、避けてください。 次回は『ロンドン科学博物館』です。(ハッキリ私の好みです!申し訳ありません・・・)
 
 

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『日本の歴史』鉄道と港 明治の交通・通信体系 [鉄道(蒸気機関車)]

 御存じ?SL好みの私ですから、ついこの本を選んでしまいました。
でも、後で分かったことですが、後に数年後全く同じ改訂版を購入してしまった事の失敗に気付いた一例です。
 
『日本の歴史』近代1-⑥ 鉄道と港 明治の交通 通信体系 (表紙).jpg 
 週刊朝日百科96 『日本の歴史』
近代Ⅰ-❻鉄道と港 明治の交通・通信体系
発行所 朝日新聞東京本社 (改訂版)2004年4月発行
 
鉄道と港 表紙2.jpg 
旧版(?)表紙  昭和63年4月発行
 
 
 
 
明治の交通 通信体系.jpg
明治の交通・通信体系 (とびら絵ページ)
 
 
 
鉄道の開業 10₋164~165.jpg
鉄道の開業 (見開きページ)164~165
 
 
 
 
10 170~171.jpg
 (見開きページ)170~171(左ページ)通信の整備●郵便・電信・電話
 
 
 
文化としての鉄道.jpg
●文化としての鉄道 192 
 
 
 
 

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『八王子と鉄道』 2012 [本と資料]

 新橋横浜間に初めて蒸気機関車が走ったのは、江戸時代が終わりを告げた、僅か5年後の明治5年(1872)。その光景を目のあたりにした当時の人々の驚きは、現代の私たちの想像をはるかにこえるものだったのではないでしょうか。またその後、数年の間に国家的なプロジェクトとして計画・建設された数々の鉄道路線は、その短い整備期間を考えると、多くの努力や苦労の上に敷設されたといっても過言ではないでしょう。こうして全国各地に鉄道が敷かれ、わがまち八王子に蒸気機関車がやってきたのは、明治22年(1889)8月11日のことでした。この路線を開業したのは、私設の甲武鉄道。東京の西部で人口も最大で織物業で栄える「桑都」八王子と東京を結ぶというものでした。その後、八王子には、甲武鉄道が官営となり名前を変えた中央線のほか、横浜鉄道(現JR 横浜線)、玉南電気鉄道(現京王線)、八高南線(現JR八高線)など多くの鉄道が敷設され、八王子は商工業のまちとして、また交通の要衝として発展していきました。・・・・・・・・・・・・・・〈はじめ〉より一部分引用・・・
                    2012年2月7日
                    八王子市郷土資料館  館長 田島巨樹

 このようにタイトルでは「八王子」と固有地名でありますが、決してそうではなく、全国的な鉄道路線、歴史的中央線の発祥地であることを含めて取り上げました。そのため、「国鉄・JR線」の初期歴史としての記事・資料内容を中心に紹介しています。
 
 
『八王子と鉄道』2012 表紙.jpg
『八王子と鉄道』 2012 表紙
 
 
 
 
馬車鉄道から汽車鉄道へ.jpg
馬車鉄道から汽車鉄道へ
 
 
 
甲武鉄道の開通 1新宿ー立川間の開通.jpg
甲武鉄道の開通 (新宿ー立川間)
 
 
 
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中央線の開業と甲武鉄道の国有化
 
 
 
機関区の風景(国有鉄道八王子機関区昭和30年代).jpg
機関区の風景 (国有鉄道八王子機関区 昭和30年代)
 
 
 
記念切符で見る甲武鉄道の車両.jpg
記念切符で見る甲武鉄道の車両 
 
 


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Paul Wunderlich [画集]

 久々に、アート画集です。それも完全洋書。かなり以前に手に入れたのですが、何語?なのかも知れず、これまでに無かった取り立てて手法でもない、技法でもない表現を使用していて、ただ以外に面白いと私は眺めていました。
 もう一つ、画集の異例の大きさ(横29.2㎝×35㎝)にブログ掲載を後まわしに引きずって来ました。勿論、私の家庭用プリンター(A4判)には入りきれず苦心していた事情もありました。
 印刷物がHongkong(香港)という語学には疎い私には、ただ絵画に魅せられた一冊に過ぎない画集です。
 
Paul Wunderlich 表紙.jpg
Jens Chrinstian Jensen Paul Wunderlich                  
Edition Volker Huber(表紙)
 
 
 1980 byEdition Volker Huber
Offenbach am Main
Alle Rechte vorbehalten
Printed in Hongkong
Die Monographie erscheint in drei Ausgaben 
 
ポートレート写真.jpg
 
 
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 Atelierszene
 
 
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Daniela weint 
 
 
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rechte Seite zu Tisch 1979

 

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LA PLANETE SAUVAGE [映画&本]

 以前このブログ『季刊「映画宝庫」SF少年の夢』の中で、ページ切れ端・記事日本未公開SF ルネ・ラルー監督・1973年度作品 LA PLANETE SAUVAGE 「未開の惑星」 伊東典夫・文が今回のテーマです。
 
LA PLANETE SAUVAGE.jpg
 
 
 ここでは、邦題『未開の惑星』となっていますが、今回のTV放映では『ファンタスティック・プラネット』(下図₋カラー)となっています。
  上図の文字が小さく読みずらいため、要約して書き出してみます。
 
 これは、フランスのSF作家ステファン・ウルの小説Oms en serie(規格化されたオムたち」とでも訳すのか?)を、漫画家・作家であるローラン・トポールの絵でアニメ化したフランス=チェコ合作の長編映画である。アンリカでの配給はロジャー・コーマンのニュー・ワールド・ピクチャーズ。監督はルネ・ラルー。脚本はラルーとポール。1974年。
 物語は、これが長編小説かと疑うほど単純である。時は未来(?)、所はどことも知れぬ惑星イガム。そこに住むオム族(フランス語で同じ発音のhommeは「人」のことである)は、彼らよりはるかに高等な巨人族ドラーグのもとで虫けらのような生活を強いられている。ドラーグは身長十メートル、体表は青く、その目は真っ赤に輝いている。主人公は、オム族の青年のひとりで、彼はドラーグの少女のペットとして赤ん坊の頃から育てられるが、ドラーグの教育装置の故障から彼らの知識を吸収するようになり、成長したのちスキを見て公園に脱走する。ことろが公園に繁茂する奇怪な植物のかげには、逃亡に成功した少数のオム族がコミュニティを作っていた。しかしドラーグにとって、かれらはうるさい害虫でしかなく、やがて徹底的な駆除作戦が始まる・・・。
 青年はオムの娘と知り合い、命からがら逃げだして安息の地を求めるうち、偶然のことからドラーグの秘密を知る。ドラーグ族は、オムが遠い昔創りあげたロボットが進化したものであり、彼らには精神的な慰めとして、定期的に心を肉体から切り離し、となりの惑星に遊ばせる習慣があった。その惑星には、かつてドラーグの心が宿っていたのだろうが、(?)動かぬマネキン人形が思いおもいのポーズをとって並んでいる。
 惑星イガムを離れたドラーグ族の心が、やがて隣の惑星に到着すると、マネキンたちは優雅に踊りだす。ドラーグの瞑想が、マネキンに作用するらしいのだ。主人公に率いられたオム族の一団は、逃げ延びる途中、両惑星の間にあるこの奇妙な関係を知り、これを利用し、ドラーグたちを大混乱におとしいれる。物語は、オム族とドラーグ族の間に妥協が成立し、両種族が不安定ながらも友好的な共存を誓い合うところで終わる。
 機械文明の風刺? 精神と肉体、人と宇宙、そうした問題の根源への問いかけ?
 シネファンタスティック誌のディヴィッド・パーソロミューの評によれば、テーマの掘り下げは不十分に終わってるようだ。しかしこの映画には、物語の骨格の弱さやテーマの不明瞭さを補って余りある見所がある。それはトボールの絵が動くことで、恐怖と驚きに満ちたその世界を眺めているだけでまず退屈することはない。ダリやマグリットに通じるシュールレアリスティックなスケッチ。あの才能が、SFの設定の中で存分に生かされ、異様な世界を次々とスクリーンの上に繰り広げてゆくのだ。公園の奇怪な動植物群。空虚な惑星上で踊り狂うマネキンたち・・・。
 

 La planete sauvage (Fantastic Planet) 1973年。フランス=チェコ合作。72分。メトロカラー。
 監督ルネ・ラルー。脚本ルネ・ラルー&ローラン・トポール。原作ステファン・ウル。絵ローラン・トポール。
 音楽アラン・ゴラゲール。撮影ルポミル・レイタール&ポリス・パロミキン。


 
 Fantastic Planet1.jpg
Fantastic Planet 1
 
 
Fantastic Planet2.jpg
 
 
Fantastic Planet3.jpg
 
 


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シュヴァンクマイエルの世界 その2 [映画&本]

 暫く長~い休載が続いて、申し訳ありませんでした。理由は言い訳がましくなるので、止めます。昔から、仕事上でも性格的に気分屋のところがあり、書きたくない時は書かない主義?で、かなりズボラ人間です。その辺をご承知おきの上、今後もお付き合いください。
 今回の『シュヴァンクマイエルの世界』の本は、2回目の登場です。最初はかなり前ですので、このブログの検索欄で〈シュヴァンクマイエルの世界〉と入力すると、このブログ名「霧のむこうのふしぎな町の人々・・・」の『シュヴァンクマイエルの世界』と表示画面が出ます。それをクリックして下さい。
 ただし、このブログ独特の画像主体のため本文例がなく、本の内容が分からないと批判の声も!?・・・。で、今回は目次を掲載しました。本文は、とても素晴らしい記事ばかりで、興味がありましたら是非、図書館で借りて読んでみてください。
 
 
『シュヴァンクマイエルの世界』表紙.jpg 
シュヴァンクマイエルの世界 表紙
 
シュヴァンクマイエルの世界
著者 ヤン・シュヴァンクマイエル
発行所:図書刊行会   1999年12月初版発行 
 
 
目次.jpg
目次
 
すべては人形からはじまる(写真 映画「アリス」より).jpg
すべては人形からはじまる  本書より (映画アリス』のシーン)
 
  ここで、映画『アリス』についての解説を同番組の詳細紹介文を例にそのまま引用しておきます。
 ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」をチェコのアニメーション作家シュヴァンクマイエルが独自のセンスで実写とアニメを組合せ映像化した長編ファンタジー。
 映画原題「アリスの何か」。1987年 スイス・西ドイツ・イギリス共同制作。84分30秒。カラー35㎜。監督・脚本・美術:ヤン・シュヴァンクマイエル。出演:クリスティーナ・コホトヴァ(アリス役)。
 幼いアリスがおもちゃ部屋で遊んでいると剥製のウサギが命を得て動き出すのを目撃する。で、そのウサギを追って魔法の引出に飛び込む。そこから19世紀のふしぎな世界へ・・・
 (実写とアニメとあるが、例えば物語でアリスが小さくなったり、大きくなったりするシーンがあるが、その小さくなる部分に玩具の人形を設定替えするため起用するのが、技術的にも幼稚過ぎるため違和感が出たので私には気に入らない!(実際にプロとして人形アニメを制作した経験のある私なのでダメ出し?を敢て苦言した訳だが・・・太字部分ブログ筆者批評)
 
 
  2016-10-06付の「エンドマークの向こうにロマンが見える」その3のおわりのところで、TV映画番組に(下図)にスゴイ番組を発見してしまった!と報告したのを覚えていますか?
 
番組表.jpg
 これがきっかけでの特別記事になりました。深夜放送で翌早朝AM6:00まで、観てしまいました。とにかく滅多に見られないチェコの有名アニメーション映画でしたので頑張って見続けました。眠たさは吹っ飛んでいました。
 今日は、本の紹介でしたが、次回(本日)は、日本未公開アニメ映画の画像を紹介予定です。
 

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エンドマークの向こうにロマンが見える その4 [映画&本]

 第5章は、割愛しました。そのため「名作映画ラストシーン100」は今回の第6章で最後となります。

 高澤瑛一 著『エンドマークの向こうにロマンが見える』名作映画ラストシーン100.jpg 

エンドマークの向こうにロマンが見える(表紙)

第6章 愛と別れの美学 

 

 6 p184.jpg

映画『望郷』

 

 

6 p190.jpg 

映画『風と共に去りぬ』

 

 

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映画『カサブランカ

 

 

6 p204.jpg

映画『終着駅』

 

 

6 p208.jpg

映画『白夜』 

 

 

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映画『ある愛の詩』 

  全作品、古い映画ばかりですが名作揃いでした。若い世代の方には初めて出会ったものかもしれません。あえて解説はしませんでしたが・・・ 


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エンドマークの向こうにロマンが見える その3 [映画&本]

 当初、全6章を掲載する予定でしたが、こちらの勝手な都合により、第3章は割愛させていただきます。

 

高澤瑛一 著『エンドマークの向こうにロマンが見える』名作映画ラストシーン100.jpg
エンドマークの向こうにロマンが見える(表紙)
 

 一本の映画を作る前に、映画監督がまず考えることといえば、ラストシーンをどう処理するかということではないかと思う。そこにどんな思想を織り込み、どんな構図で撮影するか、それがきまれば、次にトップシーンの事を考え、次にドラマのディテールに思いをはせていく。私が映画監督だったら、きっとそうするにちがいない。なぜなら、ラストシーンというものは、観客にとっては、”すべてがそこからはじまる”だからである。・・・・・以下省略・・・・・著者・高澤瑛一

      著者紹介
高澤瑛一(たかざわ えいいち) 昭和14年東京生まれ。早稲田大学、在学中、映画研究会に所属。コロンビア映画宣伝部、キネマ旬報社などで映画の仕事に従事。現在映画評論、英米文学翻訳、映画雑誌編集などの仕事を手掛ける。訳著『偶像のレクイエム』『ファニー・レディ』(二見書房)など、共著に『任侠映画の世界』(荒地出版社)などあり。日本映画ペンクラブ会員。

 

  第4章 愛は限りなく

4 p118.jpg

映画『街の灯』

 

4 p122.jpg

 映画『モダン・タイムス』

 

 

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映画『チャップリンの独裁者』

 

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 映画『誰が為に鐘は鳴る』

 

 

4 p138.jpg
映画『昼下がりの情事』
 
 
 
4 p146.jpg
 映画『卒業』
 
 
 
 突然ですが、話は代わって一 昨日、深夜TV放送で以前紹介したルイス・キャロルの映画『アリス』(1968)チェコ・実写アニメと、ついこの間、雑誌「映画宝庫」内で「SF少年の夢」に簡単な記事で紹介したルネ・ラルー監督の日本未公開アニメ映画『未開の惑星』(今回の題名『ファンタスティック・プラネット』
フランス=チェコ合作を続けさまに放映(ひかりTVにて)してびっくりしました。画像は、近いうちにこのブログで紹介掲載します。貴重な映像なので乞うご期待していて下さい! 

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エンドマークの向こうにロマンが見える その2 [映画&本]

 
高澤瑛一 著『エンドマークの向こうにロマンが見える』名作映画ラストシーン100.jpg 
エンドマークの向こうにロマンが見える (表紙) 
 
 
第2章 孤独と哀愁
 
 
p46 『市民ケーン』.jpg 
映画『市民ケーン』
 
 
  
p48 『チャップリンの殺人狂時代』.jpg 
映画『チャップリンの殺人狂時代』
 
 
 
 
p52 『禁じられた遊び』.jpg 
 映画『禁じられた遊び』
 
 
 
 
p54 『道』.jpg
映画『道』 
 
 
 
 
p58 『大人は判ってくれない』.jpg
映画『大人は判ってくれない』
 
 
 
 
p66 『82分の1』.jpg
映画『8カ2分1』
 
 
 
 
p74 『ベニスに死す』.jpg
映画『ベニスに死す』
 

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エンドマークの向こうにロマンが見える [映画&本]

 今回の本は、まず「あとがき」から始めることにします。著者自身が、この本の動機に繋がるということらしいことが書かれている。その「あとがき」の一部分を、そのまま引用することにします。
  あとがき
 一本の映画を作る前に、映画監督がまず考えることといえば、ラストシーンをどう処理するかということではないかと思う。そこにどんな思想を織り込み、どんな構図で撮影するか、それがきまれば、次にトップシーンの事を考え、次にドラマのディテールに思いをはせていく。私が映画監督だったら、きっとそうするにちがいない。
 なぜなら、ラストシーンというものは、観客にとっては、”すべてがそこからはじまる”だからである。・・・・・以下省略・・・・・高澤瑛一

高澤瑛一 著『エンドマークの向こうにロマンが見える』名作映画ラストシーン100.jpg

表紙

高澤瑛一・著  エンドマークの向こうにロマンが見える

名作映画ラストシーン100

発行所 青也書店  昭和53年8月 初版発行

 

著者紹介
   高澤瑛一(たかざわ えいいち)

 昭和14年東京生まれ。早稲田大学、在学中、映画研究会に所属。コロンビア映画宣伝部、キネマ旬報社などで映画の仕事に従事。現在映画評論、英米文学翻訳、映画雑誌編集などの仕事を手掛ける。訳著『偶像のレクイエム』『ファニー・レディ』(二見書房)など、共著に『任侠映画の世界』(荒地出版社)などあり。日本映画ペンクラブ会員。 

 

この本には、全6章のタイトルが付いている。

 

第1章 鮮烈に生きた青春

p20 『勝手にしやがれ』.jpg
映画『勝手にしやがれ』
 
 
 
p22 『太陽がいっぱい』.jpg
 

映画『太陽がいっぱい』

 

 

p26 『アラビアのロレンス』.jpg

映画『アラビアのロレンス』 

 

 

p32 『気狂いピエロ』.jpg

 映画『気狂いピエロ』

 

 

p36 『if もしも』.jpg

 映画『if もしも…』

 

  後、第6章まで続きます。 


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日仏交換映画祭 フランス映画の回顧上映 その3 [映画&本]

 
日仏交換映画祭プログラム(表紙).jpg
日仏交換映画祭  プログラム(表紙)
 
 
トーキー誕生 清水千代太.jpg
トーキー誕生  文・清水千代太
 
 
 
 
番組23 巴里の屋根の下.jpg
『巴里の屋根の下』 SOUS LES TOITS DE PARIS
 
 
 
番組27 とらんぷ譚.jpg
 『とらんぷ譚』 LE ROMAN D'UN TRICHEUR
 
 
 
番組29 『希望』.jpg
 『希望』
 
 
 
 
番組30 『悪魔が夜来る』.jpg
 『悪魔が夜来る』
 
 
番組32 『情婦マノン』.jpg
『情婦マノン』MANON
 
 
 
番組34 恐怖の報酬.jpg
 『恐怖の報酬』 LE SALAIRE DE LA PEUR
 
 フィルムソノール1953年作品
53年カンヌ映画祭グランプリ受賞作品
 
  キャストの主役マリオ=イヴ・モンタン(1921~1991)と出ていますが、おそらく中年世代以上の方ならご存知かも知れません。イタリア出身で、まずフランス・シャンソン歌手で『枯葉』とくれば、その名声は世の中に知れ渡っていました。この映画にも出ている様に、フランスの二枚目スターのひとりでもありました。
 この芸名には面白いエピソードがあり、子どもの頃、外で遊んでいた彼を母親が何時も”(フランス語)イヴ上がって来なさい!”と叫んでいたことから因んで付けた云われています。
 
 
 このプログラム(1894~1960年)の解説はおしまいです。かなり端折ってすみませんでした。尚、プログラム自体は「フランス映画人名艦」、「フランス映画史年表」と続き総数ページ約50ページ以上もありますので、これまた割愛いたします。
 ページを拡大しても、文字が不鮮明だったりしてお詫びします。※これについては、容量の関係もあり作品によりますが、近日中にダビングし直して、再掲載します。暫くお待ちください。 

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日仏交換映画祭 フランス映画の回顧上映 [映画&本]

『日仏交換映画祭』としてフランス映画の回顧上映プログラム その2です。
 
 
日仏交換映画祭プログラム(表紙).jpg
日仏交換映画祭 フランス映画の回顧上映(表紙) 
 
 
番組13 メリエスと夢幻劇.jpg
映画『月世界旅行 Le Voyage dans la Lune』(1902)
 
番組13 メリエスと夢幻劇   MELIES ET LA FEERIE
 1895年にリュミエール兄弟によって映画が発明され、一般公開されると、人々は自分たちの日常生活の周囲で行われているあらゆる動くものを映したり、フランス国内ををはじめ世界各地の珍しい動く実景に強い好奇心を示した。人々のこの要求に答えるべくリュミエール兄弟は次から次へと実写集を制作しては売り出していた。・・・やがて人々から飽きられ映画そのものが人々から離れかけようとしていた。
 この時、ジョルジュ・メリエス(1861~1938)が出てきて、1600年の終わり頃から1900年初頭にかけて、数々のトリックを駆使して幻想味豊かな映画を撮影所の中から次から次へと作り出した。・・・・・
 こういったマジックの面白さをトリック撮影によって見事に実現して見せたのが『魔法使い』(Le Magicien(1898)であり、二重焼きその他の数々のトリック撮影とイマジネーションの限りをつくして開花させ、今日いわゆる《空想科学映画》の祖をなしたのが、かの有名な『月世界旅行』Le Voyage dans la Lane(1902)である。   ※ ページ 番組 13 内より部分引用

 
 
番組16 『眠るパリ』『幕間』ほか.jpg
 
 番組16では、映画『眠るパリ』ほか1923~24年代の短編集です。 また映画『眠るパリ』(1923)は、監督ルネ・クレールの第一作作品。映画『幕間』は翌年の作。
 
 
 
 
●無声時代末期の実験精神 飯島正.jpg


 ここで無声時代末期というのは大体1920年代を意味する。この時期は無声映画の芸術性が最もふかく考えられ、そのための実験が最も多く試みられた時代であった。ヨーロッパ、特にフランスにおいて、これが著しい。 飯島 正・文 
 
※ページを拡大したい場合、ページをクリックして下さい!多少UPします。
 
 
 
 
 番組 19 『イタリア麦の帽子』(1927年)
 
番組19 『イタリア麦の帽子』.jpg
 
 作品は無声映画時代のルネ・クレール監督の名作です。
 
 
 
番組20『アッシャー家の末裔(まつえい)』.jpg
 
 原作はエドガー・アラン・ポーの怪奇小説を基にしている。監督ジャン・エプスタンはアヴァン・ガルド運動の展開した代表的な作品で、大胆なクローズ・アップ、幻想的なパン・フォーカスや高速度撮影、ユニークな構図やモンタージュなどフォトジェニー理論の実践的な裏付けがふんだんに見られる。無声映画でありながら、邸を吹き渡る風の描写を表現し得たといわれた。この独創的な表現は、当時の純粋で大胆な前衛的実験の成功を物語るぶぶんが少なくないと称される。
 尚、助監督にルイス・ブニュエルである。先達てこのブログにも登場したとあれば、アヴァン・ガルドは、この時、ここで学んだ?のであろう? *この後に、番組 22で『アンダルシアの犬』で彼の再登場。
 
 
 
番組22 『パリ・スラム街』ほか.jpg
 
  此処での作品は、全て短編映画です。
  ひとで」 仏*マン・レイ 1928
 フランスの詩人ロベール・デスノスの脚本に基づいてアメリカの写真家マン・レイがフランスで作ったシュルレアリスム映画。デスノスの発想になる恋人たちの愛と後悔についての詞をソフト・フォーカスや曇りガラスを通しての撮影などによってレイが見事に映像化している。 (丸尾) ※この項「ヨーロッパ映画作品全集」より抜粋引用。

 
 
このフランス映画の回顧 は、やっとトーキー初期に入ったばかりです。
そのため、次回も第3回目としてますます名作揃いを紹介します。ご期待ください!! 

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日仏交換映画祭 フランス映画の回顧上映 [映画&本]

 昭和27年(1952)3月、前年度から文部省内に設けられていた国立近代美術館設置準備会は、京橋交差点にほど近い日活本社ビルを購入、国立近代美術館として開館の予定で改装工事に入った。
 この地は元をたどれば、明治末期の映画興行チェーンのはしり、福宝堂のメイン・シアター「第一福宝館」の跡地という云わば映画の聖地?的場所ということらしい。その後、福宝堂が日活に吸収され、日活の映画館という歴史があるとされる。
 そういえば、京橋には大映本社もあった(赤レンガの立派なビル)ことを私の記憶にある。 
  やがて、国立近代美術館はフィルム・ライブラリーの機能として上映施設完成となり、その創立記念に『日仏交換映画祭』としてフランス映画の回顧上映会が行われる幸運に出くわした。とにかく、フランス映画の初期からの名作がまとめて観れるというので、興奮してしまう・・・。私の映画気違いの始まりでもあった!
 
日仏交換映画祭プログラム(表紙).jpg
『日仏交換映画祭』フランス映画の回顧上映(表紙)
 

 発行発行所 フィルム・ライブラリー助成協議会 発行人:川喜多かしこ
 1962年8月 発行
 
 
 
1  プログラム(目次).jpg
 目次  (附)当館の観覧券
 
2 スケジュール.jpg
上映 スケジュール
 
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フィルム・ライブラリーの創立から日仏交換映画祭まで 清水 昌
 
 
番組1 ルミエールを讃えて.jpg
リュミエールを讃えて  映画『美わしのパリ』
 
 
番組3 鉄路の白薔薇.jpg
映画『 鉄路の白薔薇』
 
 
番組5 水の娘 ベル 二ヴェルネーズ号.jpg
 映画『水の娘』  映画『ベル・二ヴェルネーズ号』
 映画『水の娘』の監督ジャン・ルノワールは、。彼の父オーギュスト・ルノワール。つまり有名な印象派絵画の巨匠です。
 
番組8 女だけの都.jpg
映画『女だけの都』
 
 
番組11 鉄路の闘い.jpg
映画『鉄路の闘い』 1946年カンヌ映画祭グラン・プリ受賞
 
 
番組12 オルフェ.jpg
 映画『オルフェ』 脚本・監督ジャン・コクトー
 キャスト 主演オルフェ=ジャン・マレー は、コクトーのお気に入りらしく全作品に出演している。
 
 
 
フランス映画の名作揃いがザクザクあるため次回も引き続き紹介します。 
 
 

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映画作品全集 [映画&本]

 今回の映画作品全集は、現在のようにTV放送の時に番組表で映画作品内容が詳しく紹介されない時代がありました。当時、特にビデオ録画をする時? 種類別にテープを選ぶとか、上映時間を知りたいとか、私など映画に凝っていた者には必需品でした。こんな時、下調べにこの本が役に立ったのです。

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映画作品全集(表紙)

  さすがに昔?から映画専門誌出版社だけに、日本公開の外国映画の全てのデータベースは全作品バッチリです。「日本映画」はもちろん「アメリカ映画」「ヨーロッパ映画」「記録(ドキュメンタリー)映画」と世界の映画を網羅しています。その中の一つ「ヨーロッパ映画作品全集の一冊の内容を例に開いてみます。

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 映画作品全集(ヨーロッパ映画)表紙

1 世界の名作 もくじ.jpg

目次

2 世界の名作 スチール写真.jpg

 世界の名作 スチール写真 ページ一例

3 本文例.jpg

本文一例

  〈あいうえお〉順に、収録、解説、日本題名、原題名、制作会社(配給会社)、制作年ー日本公開年、色彩(カラー)・黒白別、スクリーン・サイズ、作品内容(解説文の長さは、原則として作品の芸術的・娯楽的価値により3段階に分類してある。

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 小論・国と映画と作家たち ページ例

 


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「ヴェルナー・シュレーター★愛と薔薇の王国」 [映画&本]

 ルイス・ブニュエルに続いて紹介するのは、ヴェルナー・シュレーター監督です。おそらく初めて知る名前だとおもいます。私自身、出会いは「ヴェルナー・シュレーター映画祭」1987年(監修・小松弘=現代映画史研究者)が、東京・御茶ノ水にあるアテネ・フランセ文化センターで、延べ13日間行われました。

 これはそのプログラムの一部分です。 

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 「ヴェルナー・シュレーター映画祭」1987年 チラシ?

  (他に日本公開は、調べてみると、最近では「ヴェルナー・シュレーター映画祭」2015というのが東京・ドイツ文化会館で開催されていますが、私は残念ながら行けませんでした)。

 しかも故国西ドイツでもめったに公開しないという作家だから・・・なのに、1967~約20年間で40本の映画をコンスタントに制作し発表している。元々、メイジャーではなく、実験映画からスタートしたというから、その作り方が解るが、映画界では奇才として常に注目されている。

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 1987年映画祭プログラム『愛と薔薇の王国』 表紙

 

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(左) 目次   (右)映画「アイカ・カタバ」

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映画『アイカ・カタバ』シーン 

 Eika Katappa アイカ・カタパ 16ミリ・144分・1969年。マンハイム映画祭ジョセフ・フォン・スタンバーク賞受賞。
演出・脚本シュレーター 撮影シュレーター、ローベルト・ファン・アカレン 編集シュレーター 音楽ヴェルディ、ベートーベン、ベルリーニ、ヨハン・シュトラウス、ベンデレッキ、その他 出演マグダレーナ・モンテスマ、カルラ・アウラウル,ギレラ・トロヴェ、アリクス・フォン・ブーヒェン、その他

★『アイカ・カタバ』はシュレーターを有名にした最初の作品であり、またそれまでの彼の作品の集大成ともいえる大作である。初期のシュレーター作品に見られる、クライマックスの連続としてのタブロー構成が、ここでは典型的に表れており、それは通常の商業映画とは全く異なった見方を観客に要求している。神話を主題とした映像と、従属的もしくは独立した音楽モチーフの並列は、ルイス・ブニュエルの『黄金時代』に似たものを感じさせる。全体は大きく分けて九つのパートから成り立つ。
〈第一部〉プロローグ(第八部からの抜粋)に続く、この映画の最初のタブローは、聖セバスティアヌスの磔刑が主題となっている。
〈第二部〉ジークフリートとクリームヒルトの伝説。ブルンヒルトは復讐を誓いハーゲンによってジークフリートは殺害される。クリームヒルは亡き夫を思いながらベルニーニの〈清教徒たち〉からの歌を歌う。
〈第三部〉プリマドンナの死。ブロンドのミュージカル・スターの歌とオペラのプリマドンナの歌が同一のエピソード内に現れる。プリマドンナは夕暮れの田舎道で、謎の言葉を残して死亡する。
〈第四部〉マグダレーナ・モンテスマの演じるヴェルディの〈リゴレット〉
〈第五部〉ローマを舞台とした現代の神話。
〈第六部〉マグダレーナ・モンテスマの演じる〈トスカ〉。マリア・カラスの歌による。
〈第七部〉ナポリを舞台とした、同性愛者の死。二人の男は互いに愛しあっているが、一方の男の父親は、息子の倒錯した愛情を許さない。だが息子の死は、父親の悲嘆に暮れさせる。
〈第八部〉〈椿姫〉のエピソード。年配の女性がヴィオレッタを演じ、ドイツ語訳の〈トラヴィアータ〉が歌われる。
〈第九部〉フィナーレ。これまでのすべてのパートが混ざり合う。第七部を演出中のシュレーター自身の姿もその中に見られる。
『アイカ・カタバ』のパートは大体以上のように分けられるが、各パートは断片的なエピソードが複合的に交差し合っており、決してそれぞれが単一に整理されない。有名なオペラの場面からの引用は、そのオペラからのコンテクストで、容易に意味を捉えることが出来るが、シュレーターはそれらのオペラを、常に私たちの知っている設定で視覚化しているわけではない。一見全く異質な映像との組み合わせで、それらを引用している。また非常に限られた数しかないセリフも、それ自体が独立した価値を持つことによって、映像に従属されない場合があり、秩序だった意味理解を防げている。
 伝統芸術からポップカルチャーまでが奇妙に混ぜ合わされたこの作品は、しかしロマン主義的な思想と感性という点では完全に一貫性を有しており、それにより明確な脈絡を捉えることが必要となる。理解のための鍵が観客に要求される点では、かつての表現主義と類似されるところがあり、この映画がドイツ映画の本来あった時点への回帰とされる理由は、恐らくあるのだろう。 
※同誌、上映作品解説より『アイカ・カタバ』全文引用※


 本来は、今映画祭の監修者である小松弘氏の撒き散らされた映像★『アイカ・カタパ』分析(本誌・目次にもある)と題する論説文を掲載したかったが、長文で実際、この映画・映像を観たものでしか、その面白さが理解しにくいと思い割愛しました。残念です。

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 ヴェルナー・シュレーター略歴・フィルモグラフィー 1

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 ヴェルナー・シュレーターフィルモグラフィー 2

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  ヴェルナー・シュレーターフィルモグラフィー 3


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現代のシネマ 3 「ルイス・ブニュエル」 その2 [映画&本]

 前回と表紙・目次は同じです。映画「アンダルシアの犬」、「黄金時代」は前回でまとめ終了としました。今回は、それ以降の作品です。

 
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表紙
 
 
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目次
 
 
 とにかくブニュエルの映画は、通好み(ツウごのみ)?で一般の方には受け入れ難い監督かも知れません。しかし、その後商業的映画も手掛ける兆しも見え、一般映画館やTVでも放送されてきました。
 
 
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 映画『小間使いの日記』
 
それが、『小間使いの日記』(主演ジャンヌ・モロー1964年作カルロヴィ=ヴァリ映画祭主演女優賞65年度フランス・ヴィクトワール賞受賞。
 
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映画『昼顔』 
 
 『昼顔』1966年作(67年度ヴェネチア映画祭金獅子賞(グランプリ)。この様に元々実力派の監督なのです。また翌々69年度のベルリン映画祭では特別招待作品として『銀河』が出品されています。更に翌年に『哀しみのトリスターナ』1970年作。主演カトリーヌ・ドヌーヴ。
 『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』1972年作ではとうとうアカデミー外国語映画賞を受賞。『自由の幻想』1974年作。出演ジャン=クロード・ブリアリ。モニカ・ヴィッティ。とビニュエル監督の人気は立続けに上昇。なかには、へ~エこれもブニュエルの映画だったのかと気が付かないでいた方もいらっしゃるのでは。初期の頃はスキャンダラスで世の中を騒がせいたというが、実はそれは映画革命という使命を掲げていたのです! 私も既にそこに惚れていたのです!!ホント・・・
 
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(上)映画『嵐が丘』 (下)映画『電車による空想旅行
 
 ただ気がかりだった作品に『電車による空想旅行』という、何やら私の好きなメルヘンチックなタイトルの映画が日本では未公開なのだ。ブニュエル得意の絵画的トーン・タッチで、気まぐれな電車の夜の小旅行を物語った、ささやかな映画とだけは知っているが? また聖者が彫像をもちあるきながら、慈善へのキリスト教的恐喝でのうのと生きている光景もまたブニュエル独特の毒のあるシークェンスであることが興味あるのです。この辺が何か物議をかまして上映禁止の状態なのだろうか? 
 
 

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現代のシネマ3 『ブニュエル』アド・キルー著 [映画&本]

 こっそり?と短い夏休みをしました。ブログの更新が中断して失礼。ヴィジュアル系のブログに似合わず?文章の多い記事になりつつあるのを我ながら感じています。
 超現実主義映画作家ブニュエルにならって? イラストレーションでの超現実主義的(シュルレアリスム)を確立しようと、昔、この本と映画で学習したようにも覚えがあります。だから、当然に熱が入るかも?
 
 
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(表紙)
現代のシネマ 3 ルイス・ブニュエル
アド・キルー著 種村季弘・訳 佐藤重臣・解説
発行所 三一書房  1970年2月 第1版 発行
 
 
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目次
 
 
 
 超現実主義的映画で知られるブニュエルであるが、幼少の頃は神父たちの手でしつけられた正常な少年だった。
 彼はマドリッド大学に学び、そこでダリ(画家)とロルカ(詩人・劇作家)との交遊を固め、多くの知識人と相識った。
 1920年~1923年にかけてスペイン最初のシネ・クラブを設立。(同書、ブルニュエル論より) 
 
 
01 映画『アンダルシアの犬」1928年作 スチール写真.jpg
映画『アンダルシアの犬』の冒頭の有名なシーン。
スチール写真は、全て同書から転載
 
 『アンダルシアの犬』UN CHIEN ANDALON 1928年。フランス映画。上映時間_17分。
 監督・シナリオ_ルイス・ブニュエル、サルバドール・ダリ。音楽_リヒャルト・ワグナー「トリスタンとイゾルデ」より。
 出演_ピエール・パチェフ、シモーヌ・マルイーヌ、ハイメ・ミナビイェス、サルバドール・ダリ、ルイス・ブニュエル。
 制作_ルイス・ブニュエル。
 
 ストーリー 論理的な脈絡はなく、いきなり剃刀の刃で眼球を切られる若い女性。腐ったロバをのせたまま連なっている2台のピアノ。痙攣している掌をはい回っている蟻の群れ……など、意表をついたりショッキングな映像が続く。感情とか心の状態を表現しようとこころみている。当時新しい芸術創作の激しい意欲に燃えていたブニュエルとダリの鋭い感覚の閃きが随所に感じとられる。ロシア出身で34年に自殺したピエール・パチェフ、シモーヌ・マルイーヌが同映画に共演している。 (丸尾) (この解説文、「ヨーロッパ映画作品全集」(キネマ旬報増刊号より抜粋引用)
 シークェンス(映画用語)=幾つかのシーンを寄せ集めたひと続きの画面(広辞苑参照)。は犯行の生々しい叫びに満ちており、夢の遊びはフロイト研究という職分をはるかに超えて、不安によって武装するのだ。この時私たちにブルニュエルの声が聞こえてくる。(同書、ブルニュエル論より)
 
02 映画『黄金時代」1930年作 左下のみ映画「糧なき土地」1931-32年作 スチール写真.jpg 
 
 映画「黄金時代」1930年作。(左下のみ)映画「糧なき土地」1931-2年作。
 
  『黄金時代』L'AGE D'OR 1930年作 。製作_ド・ノアイユ子爵(当時フランスにおける芸術家のパトロンとして知られていいた富豪ド・ノアイユ候から一番作りたい映画を自由に作るようにと提供された1万フランをもとに製作された)。
 シナリオ_ルイス・ブニュエル。音楽_ベートヴェン、ワグナー、メルデルスゾーン、ドビッシーのものより、ジョルジュ・バン・パリスの創作。撮影_アルベール・デュベルゲン。美術_ミルツネック。出演_ガストン・モドー、リア・リス、マックス・エルンスト(画家)、ピエール・プレヴュール(フランスの詩人鋭い風刺と生き生きとした生活感を軽妙な言葉。映画『天井桟敷の人々』の脚本、シャンソン『枯葉』の作詞など)。 上映時間_63分。
 
 超現実主義者ブニュエルは、「黄金時代」によって、衒学者づれが《映像芸術》と称するものの新天地をもたらした。だが、既にして彼の第一作はまぎれもない革命で在り、それゆえにこそ、ただちに保留をつけはするものの、『アンダルシアの犬』をわたしはきわめて重要な映画だと考える。『黄金時代』の映像は、習慣という眼のウロコをはがされた眼が見ることのできるものの正確な再現である。キリコ(形而上絵画で名を馳せたイタリアの画家)、エルンスト(シュルレアリスト画家。新しい手法で幻想世界を開拓した)、その他の画家たちの後で、ブニュエルは、映像芸術という手段によって、運動と連想と細部と全体とが同一の瞬間にはらまれているのだから、それだけいっそう絵画より豊饒に、わたしたちにブルトン(フランスの作家・批評家。シュルレアリスム宣言」、小説「ナジャ」など。(1896~1966)のいわゆる《未開の状態にある眼》(「超現実主義と絵画」)を取り戻させてくれる。
 第二作『アンダルシアの野獣』という名で呼ばれるはずだったこの映画は、当初続編だったのだ。事実、ブニュエルとダリは『アンダルシアの犬』のなかで使われなかったギャグを使って二番目の映画を撮ることに決めていた。が、頭に石を載せて散歩している紳士というギャグだけだった。《私の構造のなかでは、この映画は、カトリックの神話という創造の光輝を通じて受胎した愛の暴力を翻訳するはずだった・・・・・ブニュエルはひとりで『黄金時代』を撮り、したがって私は実際上除け者にされた…わたしはおそろしく失望した。映画は私のカリカチュアでしかなかった。カトリシスムは素人っぽい手口で、しかもなんの詩情(ポエジー)もなく、めちゃめちゃに傷めつけられていた…》(ダリ自著『サルヴァドール・ダリの秘められた生涯』)。(本書、ブルニュエル論より引用)
 
 ガストン・モドが扮する男とリア・リスが演ずる侯爵の娘との間にかよう《狂おしい愛》の描写を縦糸として、それに海の近くの岩山の上でミサをあげる4人の大司教、疲れ果てた匪賊(ひぞく)隊、神聖なローマ帝国の定礎式に参列する人たち、ローマ郊外のX侯爵邸で催される上流階級のレセプションと野外音楽会がからみあう。《象徴》や《隠喩》をふんだんに使って、宗教、慈悲、純潔、男女間の愛欲、儀礼、社会通念といったものに対してブニュエル特有の痛烈な批判を投げかけているところに作品の狙いがある。一狂人の夢物語ということで当時の検閲の眼をごまかしたものの、一般公開されるときの社会通念全体をくつがえさんばかりの痛烈な批判ぶりは、カトリック宗教団体などから大きく騒ぎ立てられ、公開1週間で公開禁止を言い渡されたという一幕もあった。 (丸尾) (この解説文、「ヨーロッパ映画作品全集」(キネマ旬報増刊号より引用)
 
・・・・・超現実主義と映画と邂逅(かいこう=思いがけなく出会う)のもっとも完璧な例は鏡のシークェンスである。わたしの見るところ、それはおそらく映画史のなかでも最も優れて詩的なシークェンスだ。
 リア・リスが部屋に入って、ベッドの上に牡牛ががいるのを見ると、その牡牛の鈴の音が耳からはなれなくなり、牡牛が画面から消えたあとでもこの音がずっと残る。次の画面でわたしたちは警官に取囲まれたガストン・モドーの姿を見るが、鈴の音はあいかわらずつづいていて、犬の吠える声がこれにダブる。鏡のなかの空を前にして身をかがめるリア・リスにふたたびお目にかかると、鈴の音__犬の吠え声の二重音にさらに風の音が加わり、この三重音が、数キロメートル離れたところにいる二人の恋人たちにつづくシークエンス中ずっとつきまとう。二つの音__鈴の音と犬の吠え声__によって、観客は空間の隔たりもこれを分かつことができない二人の人物の結びつきをつぶさに体験し、風の音がこの結合の勝利を絶叫する。
 『黄金時代』がトーキー最初期作品の一つであり、その音響の革命にはいかなる技術的機能もないということも忘れまい。これは要するに映画なのだ。  

 

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「Buster Keaton's THE GENERAL」(邦題)「キートンの大列車追跡」 [映画&本]

 

 又とんでもない本を押し入れから発掘?した。私の押し入れは、宝探し!の様なものです。本棚、本箱をを揃える前に、多分一時的に保存しておいたのだろう。それをすっかり忘れていたのだ。輸入出版物だがクラシック映画「Buster Keaton's  THE GENERAL」(邦題)「キートンの大列車追跡」U.S.A-1975年発行。
 このブログの自己紹介(プロフィール)にもあるように私は大のSLファンですから最高の映画です。大昔、有楽町(数寄屋橋角)に「日劇」という円形ビルの大劇場がありました。その裏に朝日新聞本社があったことも記憶にあります。日劇の地下に「日劇文化」という名画座があり、GWロードショーで観たのが、この映画だったのです。こんな面白い映画の本がないのだろうか? で、見付けたのが今回の本です。
 何がとんでもないか? というと、一冊全頁が映画フィルム全篇のフレームを掲載して見せつけたから驚きなのです。そのフレーム枚数約2,300を残さず印刷編集してしまうスゴ技。(現代なら、映画一本分をビデオ録画すれば事足りること)例えビジュアル派の私でも”マイリました!”と頭を下げてしまいました。こんな本は、今後二度と現れないだろう!!
 で、今回は、その数頁をそのまま掲載するだけで済ませました。
何故、今回記事掲載が遅れたかというと、つい全頁、映画1本観る様にフレームを256頁めくってしまって、この時間とスキャンに手間執る結果です。(笑!)

 

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表紙 
 
 
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 扉
 
 
BUSTER KEATON'S 
THE GENERAL

Edited by Richard J.Anobile
A DARIEN HOUSE BOOK
FLARE BOOKS / PUBLISHED BY AVON




「キートンの大列車追跡」の映画史上での傑作さと、ストーリーを紹介しておきます。
 SLが本物。この本物の魅力がすばらしい。それにしても、キートンはよほどSLに詳しいに違いない。SLのあらゆる部分、あらゆる機能をギャグにつかっている。__阿川弘之氏(小説家・評論家)
 キートン扮する主人公の名はジョニー・グレイ。南軍一の名機関士で、自分が運転するSL〈将軍号〉と憧れの恋人アナベルと・・・書いたが、奇跡!が起きたこの本に、当時の日劇文化のチラシ?が挟まれていた。
 
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 当時のチラシ?
 
  
 

「キートンの大列車追跡」について解説を続けます。このチラシ?の双葉十三郎氏(映画評論家・翻訳家)によると  ……キートン喜劇のなかでもズバ抜けて面白い一篇である。キートンの長尺喜劇は前半が比較的のんびりした展開で後半にアクションが爆発し面白さが盛りあがるという構成が多いが、この作品は最初からギャグも豊富で全編スキ間なしに面白さが詰まっている。・・・・・ここから追う者と追われる者が逆になってのアクションが、展開されることになるが、この生きるか死ぬかの騒動のうちに家庭の主婦気分で機関車の床をホーキでお掃除するといったアナベルにからむギャグもすごぶる優秀。

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機関車の床を御掃除するアナベルのシーン 

 さらに途中からは敵側がもう一台〈コロンビア号〉という機関車を動員するのだからSLファンにとってもこんな御馳走はめったにないだろう・・・・・。  

 
 
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  北軍本部からジョニーがアナベルを救い、〈将軍号〉を奪い返して、全編のヤマ場、ロック・リバー・ブリッジに至るまでの、ギャグとスリルとサスペンスが交差する見事さは、映画ならではの迫力! この間のキートンの共演者(?)__SL〈将軍号〉、SL〈テキサス号〉、SL〈コロンビア号〉__の活躍が目ざましい。ロック・リバー・ブリッジから炎と燃えて落ちる〈テキサス号〉の姿は永遠に語りつがれてふさわしい。が炎上した筈の〈テキサス号〉は、今も走れる状態で健在という。

 
 
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p255-p256 
 
 

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BEATLES MOVIES CATALOG 又平享 編 [映画&本]

 このブログ愛読者には、ビートルズ・ファンも結構います! そんな年齢層? (笑)。珍しい本です。しかし画像が悪い、多分、出版権関連で、この本の場合わざわざ全モノクロで、ボケているシーンが多いのかも?・・・。ムービーといえばかなり以前、NHK-TV特集?などで何回もビートルズ特集を放送していてビデオ録画しました。古き良き時代でした。
 
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BEATLES MOVIES CATALOG 又平享編 (表紙)
BEATLES MOVIES CATALOG 
ビートルズ・ムービー・カタログ 又平 享
発行所 講談社  1973年7月 第1刷発行
 
 
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 目次
 
 
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 p14-15  A HARD DAY'S NIGHT
 
 1964年度作品、日本公開映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』の映画タイトルでお馴染み!。
 有名なシーンと云えば、ファンやお巡りさんとの追っかけごっこ?がそのまんまタイトルになった…と共にビートルズのブーム到来だぁ~。
 
 
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 p18-19 HELP!
 こちらの和題?は『4人はアイドル』。監督は前回と同じリチャード・レスター。オーストラリア・バハマ諸島などへのロケで、ストーリー性を加え、娯楽色の濃くビートルズの4人の持味が生かされている。
 
 
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アニメーション映画『YELLOW SUBMARINE』1968年 ユナイト映画配給
 
  アニメとしては実験的で、当時、世界的なイラスト・ブームとなった、いわゆるサイケ調[psychedelic]の元祖?で、アニメ映画の金字塔的傑作!と言っても過言ではない。私などイラストレーターは真っ先に飛びついてこのDVD-VIDEOを手に入れた位だ。
 で、この作品だけは、DVD版のパッケージから雰囲気だけでもお目にかけます。
 ビートルズ思想 ”ビートルズ・Love"の存在的作品でもある。
 
 
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p28-29-32-33  LET IT BE 1970年度作品
 
  ビートルズ最後の主演映画。「僕がビートルズを去ったんじゃない。ビートルズがビートルズをさったんだ」ポールの名言が、タイトル"Let it be"。アップル屋上での最後の演奏が印象的!
 
 
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p88-89~92-93  SHEA-STADIUM 1965年8月
 
 全編アメリカ公演のドキュメンタリー・フィルム。スタジアムの6万人の大観衆の熱狂的、耳を劈く(つんざく)様な騒音が凄かった。女の子達は泣き叫び。なにしろ曲が良く聞こえないくらいだった。これも日本のTV番組で観ることが出来た。映像だったが最高に興奮したコンサート・フィルムだった。 
 
 
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 p100-101~104-105 TOKYO CONCERT1966 6月30~7月1・2
 
 
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p106-107  HISTORY OF THE BEATLES
 
 
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p108-109  HISTORY OF THE BEATLES 2
 

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季刊『映画宝庫』SF少年の夢 [映画&本]

 趣味として映画気違いです。で、若い頃より映画に関する書籍もよく買い集めていました。それで、古い時代のばかりですが、集中して何冊か紹介していきます。好みが合えば幸いです。
 
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 季刊『映画宝庫』表紙
季刊『映画宝庫』 第6号〈春〉1978年4月発行
発行所 芳賀書店  責任編集_石上三登志
 
 
 一時、SFブームの頃がありました。タイトルも「SF少年の夢」。つまりは少年の如く熱中してしまうことですね。雑誌とは言え300頁をオーバーする凝縮さです、先ずは、目次を・・・
 
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 目次
 
 
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  p1 SF映画オリジナルポスター
 
 
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p2-3 SF映画オリジナルポスター
 
 
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p4-5 SF映画オリジナルポスター 
 
 
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p18-19 座談 手塚治虫の世界は…
 
 
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 p106-107 写真でたどるSF映画の変遷
 
  1902年『月世界旅行』(右上)。何回か観ている方もあるでしょう。有名な映画初期時代です。縦方向に年代が移る。
 
 
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 p108-109 写真でたどるSF映画の変遷
 1939年までの、おそらく生まれる前?に作られた映画かもしれません。
 
 
  
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 ルネ・ラルー監督『未開の惑星』
 
 1973年度作品。日本未公開SF映画だが監督=ルネ・ラルーで作られていた。つまり、かの『時の支配者』以前です。
 LA PLANETE SAUVAGE 『未開の惑星』だが、私は〈ひかりTV〉で幸運にも全編を観ることが出来た。作画は、マンガ家・作家であるローラン・とポール。フランス=チェコ合作の長編アニメである。

 
 
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 p230-231 SF映画レコードジャケット
 
 
 
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 本誌とは関係ない映画鑑賞のチラシ 映画ファンよりコミックスファンに絶大人気のメビウス。 
監督=ルネ・ラルー 作画=メビウス 映画「時の支配者」

 
 

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WALT DISNEY映画「 FANTASIA ファンタジア」 [映画&本]

 
  ディズニー映画が続きます。今回は、かなり古い作品でも名作で、私の好きな映画です。クオリティーも最高傑作でしょう。このパンフレット小冊子は、公開年月が古く、残念にも保管状態も悪く汚れが目立っています。でも当時としては厚手の紙を使用して立派なパンフレットです(全24頁 A4判サイズ)。
 
 
FANTASIA(表紙).jpg
WALT DISNEY映画 「 FANTASIA ファンタジア
版権所有 ウォルト・ディズニー プロダクションズ Ⓒ WALT DISNEY production
編集 大映株式会社
1941年度 アカデミー賞受賞作品
製作者 賞 ウォルト・ディズニー
特別賞 (録音方式に対して=4本のサウンド・トラックによるステレオフォニック・サウンド)
特別賞 (音楽の特異な視覚化に対して=
場面によりシネマスコープから1・60対1まで自由に変化できる特殊方式のカメラと映写機能)

 
 
  この映画内容は全編、レオポルド・ストコフスキー指揮によるクラシック名曲音楽の数々で綴られている画期的アニメーション映画ですから、子どもより大人の方が楽しめる様な芸術作品と言っても過言ではないでしょう。だからこそアカデミー賞の栄冠を得たのでしょう。そのため、このパンフレットには、フランス在留(当時)の画家、東郷青兒画伯の「ファンタジア」雑感が一頁にわたり寄せられています。
 
 またディズニー自身のこの映画の意義は〈目で見る音楽、耳で聴く絵画〉と解釈しています。まさにタイトルの如く「ファンタジア」です。又、上記の如くこの映画を制作にあたって、アカデミー賞特別賞で数々の映像技術、音響技術を開発発明(今日のステレオタイプは、最初という歴史的映画でした。 
 
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(写真右)レオポルド・ストコフスキー (写真左)ウォルト・ディズニー
 
 
 
 
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組曲「くるみ割り人形」
 作曲チャイコフスキーのバレエ曲「くるみ割り人形」から「金平糖の踊り「葦笛の踊り」「花のワルツ」他6曲の組曲を幻想的に・・・。
 
 
 
 
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ファンタジア」の出来るまで


 使われた曲は、前の組曲「くるみ割り人形」。バッハ作曲「トッカータとフーガ・二短調」。ポール・ヂュカ作曲「魔法使いの弟子」で、唯一ミッキー・マウスのキャラクターを弟子役に起用。 ストラヴィンスキー作曲「春の祭典」。 
 
 
 
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 ベートーヴェン作曲「田園交響曲」
 ベートーヴェン作曲「田園交響曲」より第一楽章 「田園についた時に起る愉快な気分」。第二楽章 「小川の場面」。第三楽章 「田舎の人々の楽しい集い」。第四楽章 「あらし」。第五楽章「牧歌、あらしの後の喜びと感謝」。
 
 
ポンキュリ作曲「時の踊り」。(当頁割愛しています) 
 
 
 
 
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「禿山の一夜」と「アベ・マリア」
 ムソルグスキー作曲「禿山の一夜」。シューベルト作曲『アヴェ・マリア』。
で終曲。 

 

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「アリスinワンダーランド」 [映画&本]

  「国立西洋美術館」世界遺産登録おめでとう!

というのも、ブログ記事初期に『国際子ども図書館』の帰り道に「上野公園を散歩」しながら「国立西洋美術館」にも寄った記憶があったからです(このブログ内を調べてみたら、2012-11-15付け)で          
国立西洋美術館に行く:霧のむこうのふしぎな町の人々:So-netブログ
を検索して見て下さい。すでに4年前に世界遺産登録のことまで予感?記事レポートにしていました。各国にまたがり、今までにない建築物推薦で苦労したようですね。先ずはメデタシ、芽出度し・・・

 

 これは、ディズニーデジタル3TM初公開上映のために記念して発行されたものです。ですから劇場用パンフレットとも違います。そのため、100ページ近いスペシャルパッケージの刊行物として出版されたものです。通常の出版物扱いとも区別しています。ので、解説もあまりしていません?が、アリス物語はオーソドックスに作られていますので、説明の必要がありません。しかし、監督ティム・バートン×ジョニー・デップは、映画界では独特の個性と手法で名高い人なので”成程!”と分かります。それとともに、ストーリーが「不思議の国のアリス」のその後__で展開していますのでご注意ください。

 
 
 
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『アリス イン ワンダーランド
オフィシャルガイドブック 
                                                            発行所 ぴあMOOK  2010年5月発行
 
 
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p70-71 監督 ティム・バートンのロング・インタビュー(6頁)
 
 
 
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オリジナルポスター(スキャナのため一部分)
 
 
 
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 前オリジナルポスターの全画像(別刷りから)

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山本兼一『火天の城』と映画パンフレット [映画&本]

 久しぶりに小説を紹介することになりました。本来ビュジアル系?ブログな為、文字主体の小説本紹介は苦手です。(その影響もあって、文字を少なくするには?と思いついたのは映画化の映画そのものです。幸い映画を観ていたので、パンフレットをゲットしていた。これを主体に始めます。(´▽`) ホッ! ところが、このパンフレットが豪華版!? 私物スキャナ(A4判)には入りきれないっ! これも編集に手間取った原因でした(大笑)。 

文春文庫「火天の城」(表紙).jpg
山本兼一『火天の城』(表紙)
 発行所:文芸春秋(文春文庫)2007年6月第1刷発行

 「信長の夢は、天下一の棟梁父子に託された。天に聳える五重の天主を建てよ! 巨大な安土城築城を命じられた岡部又右衛門と以俊は、無理難題を形にするため、前代未聞の大プロジェクトに挑む。信長の野望と大工の意地。情熱、創意、工夫___すべてのみこんで完成した未曾有の建造物の真相に迫る松本清張賞受賞作。 
 解説・秋山 駿 」 更に氏は、「実際の建築の次第・順序がどう行われたのか、材料をどこからどうやって調達したのか、・・・・・たとえば、内藤晶『復元安土城』のおどろくべき緻密な研究の中の次の一行。「材木の徴集がどこからなされたかは、大工事にもかかわらず史料がなく、未詳である。」___と語られいる。
 (以上 文春文庫より原文一部分、引用)
 映画では、この疑問が詳しく描かれているので、興味津々! 否、山本兼一氏の原作にこそ、築城の棟梁父子の苦悩が、綴られているのです。今は幻の城となっている安土城のドラマが興味深く読者を引っぱっています。まるでドキュメンタリーのごとく、山本兼一氏の取材力の勝利?に感嘆!
 
 
原作者と原作本.jpg
 原作本(図下右)が「単行本」表紙,2004年6月発行 
 
  安土城を命じられた宮大工、岡部又右衛門以言の苦闘を描いた本格派歴史小説。周到な取材と鋭敏な筆致による隅のない構成もさることながら、安土城の建築過程を縦軸に、信長とその時代を横断するという視点が鮮烈。ドラマ面では、又右衛門とその息子、以俊(もちとし)との葛藤がまた白眉で、その職人父子の激しくも深い絆の物語は、映画版の父と娘の関係とは異なる感動を与えてくれる。・・・・・」(映画パンフレットより引用) 映画は大ヒットしたため、多くの方が、既にご存知の事でしょう。
 
 原作者 山本兼一(やまもと・けんいち)
 1956年、京都市生まれ。同志社大学文学部美学及び芸術学専攻卒業。99年「弾正の鷹」で小説NON短編時代小説賞を受賞。2004年「火天の城」で松本清張賞を受賞2009年。『利休にたずねよ』で第140回直木賞受賞。
 その他の著作に信長、秀吉、家康に仕えた鷹匠・小林家鷹の生涯を描いた『戦国秘録白鷹伝』、信長の鉄砲隊を率いた橋本一巴に焦点を当てた戦国歴史小説『雷神の筒』、伝説の名刀を鍛えた刀鍛冶・虎徴』などがある。
 
 
 
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 映画パンフレット表紙 (B3判) 
 
 
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 波乱の戦国時代、破壊が渦巻く只中に、かくも豊かな創造のドラマがあった!
 
  総工費1000億円! 稀代の戦国武将・織田信長の威光と開明を象徴した前代未聞の城郭要塞・安土城。その築城の陰には、知られざる名工の姿があった!
 宮番匠一家にあふれる家族愛! 男同士の絆が生む新たな信長像!

 この映画ショット・シーンは、私が見た限りでは、最もハイライト・シーンではなかろうか?(上写真)
 御屋形様・信長の目の前で、主人公・又右衛門は、雛形(模型)・安土城を燃やす立会いのシーン。以俊(息子)提案の、西洋風(例・教会の)吹き抜けの建物では、煙突効果で見る間の火の海に・・・。が、又右衛門の作は、観た目は不格好だが、燃え難かった。(写真左の城)。これを見て信長の最後につぶやきが、又右衛門の耳に粘りついて残った。「落城するにしても、これならば、ゆるりと曲舞(くせまい=信長が好きな能舞)をたのしむいとまがある」と。*太字、小説本文から引用*
 
 
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パンフレットより 織田信長(俳優・椎名桔平) 
 
 
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 パンフレットから 主人公宮番匠(大工棟梁)・岡部又右衛門 (俳優・西田敏行)
 敵国・木曾の山中へ木曾檜材を探し求める危険な旅へ・・・
 
 
 
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 パンフレットより 安土城築城をめぐる人物たち
 
 
 
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 パンフレットより 美術セット図(美術監督・西岡善信)
 
 
 
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 映画パンフレット 裏表紙
 
【火天】 (かてん)
仏教における天部十二天のうち、南東を司る火の神。
火に焼べられた供物 や、火葬された死者の魂を天上へと運ぶ、神と人とを繋ぐ神。
その智慧を焼き、闇を照らして、迷える者に正しき道を示すという。 
 


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「信長の本当の顔はどれだ?」 [日本の城(図説・歴史解説ほか全般)]

  今回は、急遽『歴史REAL』というムック形式の雑誌を紹介します。急遽としたのは、予定していた小説 山本兼一・著『火天の城』と映画を紹介する予定が、急用と画像が編集が遅れてしまってのこの始末です。完成まじかですので、2日前後の猶予です。よろしくお願いします。

歴史REAL vol.1.jpg
表紙
発行所 洋泉社  2011年1月発行 
 

 あまり見慣れない雑誌です。私は、創刊号をゲットしていました。結構、ユニークな内容です。戦国合戦を科学するがモットーだそうです。今回は、織田信長のテーマが続く?のでその関連で・・・ちょこっと? 信長像について研究者の考証を掲載。
文:藤本正行(ふじもとまさゆき)
1948年東京都生まれ。国学院大学兼任講師。
主な著書に『桶狭間の戦い』『長篠の戦い』『本能寺の変』(いずれも洋泉社歴史新書y)、
鎧をまとう人びと』『武田信玄像の謎』(ともに吉川弘文館)など多数。 
 
 
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p50-51 
 『素顔の信長はどれだ?』が今回のテーマです。たったそれだけ・・・。
 著者・藤本正行氏は、長年「織田信長の顔」について研究し続けて、信長の信長像を突詰めて到達?にいたったそうだ。
 これまで、右図の長興寺所蔵の信長像がイメージ化されてきた。
 今回、新たな考証されたものが左図のものである。報恩寺所蔵の信長像 (写真撮影:永野一晃)。 説明によるとホクロにリアリチィが感じられるという。
 
 
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 p52-53
 ここでは、右図 「大徳寺所蔵の信長像」桃山時代を代表する絵師・狩野永徳による肖像画。シワの多さ、髪の薄さなどから晩年の姿を描いたと思われる。(と、解説)
 左図。総見寺所蔵の信長像 狩野永徳の曾孫・常信が描いたとされる肖像画。一般に、大徳寺の信長像を手本にしたとされているが、両手首の描き方の違いをかんがえると、下絵などが手本になったのではないかと考えられる。
(写真提供:岐阜市歴史博物館)。
 
 
 
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 p54-55
 右頁図。国友家史料の信長像 徳見寺の信長像と同じ図様で、手首を突き出している画の模本。ネズミに喰われて二か所に大きな空白がある(桑本信子所蔵、写真提供:長浜城歴史博物館)。
     *以上、本書本文から部分引用 しました。
 
 

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『絵本 織田信長記』 [日本の城(図説・歴史解説ほか全般)]

 「統一の覇者」から転じて、織田信長特集です。これは珍しい!?「絵本 信長一代記」を取り上げてみました。

 

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『絵本 織田信長記』表紙                                                         歴史読本より 発行所 新人物往来社 2008年8月発行
 
 
 
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 新編「絵本 信長一代記」 【第一部「信長記」篇】  解題 
 
  表題「絵本信長一代記」は編集部と筆者で相談して、便宜上名付けたもので、そのような絵本もいくは絵草子が存在するわけではないことを、初めにお断わりしておく。*本書本文より抜粋引用*
 本編は、以下の三種のテキストから成っている。
  ①『絵本 拾遺(しゅうい)=洩れているものを拾い集める=信長記』
  ②『真顕記(しんけんき)』(『太閤真顕記』か?)
  ③『絵本太閤記』
 この内、①で、第一部を、②③で第二部を構成している。②は一部しかなく表題もないが、柱刻に「真顕記」とあり、『太閤真顕記』ではないかと思われる。豊臣秀吉の一代記をまとめた絵本形式の武辺噺(ばなし)というべきもので、③に近い絵本である。それに対して、①は一種独特の絵本で、②③とは明らかに性格を異にすることから、構成を別にした。性格の異なるこの三点のテキストのなかから、織田信長に関する記事を抽出することにより、絵による信長一代記を再構成しょうと試みたのが本稿である。 その際、留意すべきは①の存在である。①についてもう少し詳しく述べると、近世になって、浄土真宗(じょうどしんしゅう)=我が国浄土門の一派。浄土三部経を所依とする。*この項「広辞苑」より引用。=蓮如上人から描き起こし、主に織田信長時代の石山合戦の顛末(てんまつ)を描いたものである。※以下、一部分省略。
 『筆禍史(ひつかし)』(国会図書館所蔵)によれば、『絵本拾遺信長記』は文化元年(1804)に幕府により絶版処分を受け版本・版木が没収されている。これは同年の幕府令により、絵草紙の武者絵に名前や紋所・合印などを入れることを禁じていたためという。(桐野)
 
 
 
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新編「絵本 信長一代記」 【第一部「信長記」篇】
 
 
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p54-55 蓮如、大坂に御堂を建立する
 
 
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p60 (右頁)信長軍を恐れ三好勢四国へ落ちる -p61 室町御所で能興行
 
 
 
 
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 p96(右頁) 丹羽長秀、堺で出陣準備す ₋p97 秀吉、山崎の合戦を制す
 
 
 
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 新編「絵本 信長一代記」 【第二部「太閤記」篇】
 
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p100(右頁) 織田上総介信長 ₋p101 大うつけの日常生活
 
 
 
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p104(右頁) 信長、斉藤道三と正法寺に会す p106(左頁)木下藤吉郎、信長に初見参
 
 
 
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p130 浅井長政の最期 ₋p131(左頁) 信長、安土山に城を築く 
 
 
 
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p148(右頁) 信長、本能寺で自ら矢を射る  ₋p149 小倉松寿丸らの奮戦と討死

 
 
 
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p161(左頁) 秀吉、三法師を擁立す
                                                                                                  

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日本の歴史『統一の覇者』 [日本の城(図説・歴史解説ほか全般)]

 
0  『統一の覇者』 表紙.jpg
表紙(左は外箱。右が本書)

人物探訪
日本の歴史 6⃣『統一の覇者』
昭和49年7月発行   発行所 暁教育図書株式会社
 

 統一の覇者とは言わずと知れた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。戦国統一期の三勇たち。
この本では、この三氏が主に綴られている。
 
  
p2-3 統一の覇者 目次.jpg
 
目次
 
 
p8ー9 織田信長.jpg

信長所用 
 右上は、織田信長画像。狩野元秀(かのうもとひで)の筆なる最も信長に近い画像(本書引用)。(中央)織田信長所用。金小札色々威胴丸(きんこざねいろいろおとしどうまる) 元亀3年11月、武田信玄の西上に対応して、上杉謙信と一時同盟をした信長は、春日山城下に使者を常駐せしめて種々の珍物を贈った。この胴丸は、他の品物と共に、信長が、謙信への引出物としたもので、信長所用といわれる現存の甲冑中、時代の合致するものは本品のみという。(右下)金小札色々威胴丸金小札色々威胴丸付随の大袖。 (左上)南蛮様鉄兜(なんばんようてつかぶと)ポルトガル製の鉄兜といわれている。(左下)信長軍旗。
 
 
p11-12 秀吉具足 画像 軍配.jpg
p14-15 秀吉所用 
 
 (右頁)豊臣秀吉所用。花色日丸威具足(はないろひのまるおどしぐそく) 桃山期を代表する美術的な甲冑の一つで、秀吉好みの華麗さが特徴。
(左頁)豊臣秀吉画像。狩野派の筆になるもので、その堂々たる姿は現存する秀吉像の中で最高のもの。(本書の引用) (左下) 秀吉所用。真珠団扇型軍配。 朝鮮の役の際の戦利品で、三百余の天然真珠が縫い付けられている。
 
 
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p18-19 家康 南蛮胴具足・手形・太刀「助實」
(右上)徳川家康画像。江戸初期の創作による。東照大権(とうしょうだいごん)現像。
(右下)家康所用・網代駕篭(あじろかご)この駕篭は、大坂夏の陣に使用したと伝えられている。戦場の往来に用いられた時に受けた銃弾の跡がある。
(中央)家康所用・南蛮胴具足(なんばんどうぐそく) 家康が関ヶ原の戦いに使用したと伝えられている。
(左上)家康の手形。手のひら上部に一直線に貫いている非常に珍しい手相。
(左下)家康所用・太刀「助實」(たち・「すけざね」)
 
 
p21-22 対談.jpg 

p21-22 対談 ●永井路子(作家) ●杉山 博(東大教授) 
 
対談は、時代背景とその周辺(杉山・談=将軍義輝が永禄年期に幕府の家臣名簿を作らせ、在国大名衆43名、関東衆25名。尾張の信長、三河では松平元康が出ているが、蜂須賀が出なければ、秀吉も出ていない。)から始まって信長_その人間(父・信秀と信長の継続)をめぐって。光秀の謀叛(むほん=主君に背くこと)は戦国の論理。秀吉をめぐる評価。幕藩体制を確立した家康。
などが語られている。
 
 
 
p40-41 右上から)円徳寺陣鍾.jpg
p40-41 信長所用 

 (右上)円徳寺陣鍾(えんとくじじんしょう) 信長は浄泉坊に陣地の跡を寄進して円徳寺を建立し梵鐘を鋳造した。(その左)信長所用・軍配団扇。(右中段)信長愛用胴服。信長が箕作のたたかいの功により、初代松平真一に与えたもの。以来松平氏の葵の紋所が、この桐紋に変わったと伝えられる。 (右端下) 天下布武の朱印状(てんかふぶのしゅいんじょう)。 (その左)伝・信長所用・瀬戸水指 瀬戸藤四郎の作で信長好みらしい重厚さがある。
 (中央)信長所用・揚羽蝶紋鳥毛陣羽織(あげはちょうもんとりげじんばおり) 上部が水鳥の毛。下部が錦で作られた陣羽織。背中に揚羽蝶の紋がある。 
 (左上)信長所用・陣羽織。木瓜(もっこう)の紋が原型に近い形で残っている。 (その下)伝・信長所用・轡(くつわ)=乗馬具の一種、口輪の意(近世は、鏡板の円の中に十文字の轡に進化。 調馬にたけていた信長愛用のもの。 (さらに下)蛭藻金(ひるもきん)または雁金金) 長楕円形、蛭藻=(植)ヒルムシロの別称)の型に似て、信長が鋳造した金貨(安土城下で発掘)。(最下)鉄鐔(つば) 永楽通宝=明の永楽6年(1408)からの青銅銭、日本には室町時代から流通。の銀象嵌がほどこされている。 (左端)信長所用・仕込杖(中にかたなを隠し入れた杖(左側)。 
 
 
p60-61 お市の方 明智光秀.jpg
p60-61 (右頁)人物余話 (左頁)明智光秀 

 何れも、1頁の触りで申し訳ない。でも、戦国物語に興味のある方は、すでにご存じでしょう(笑) 明智光秀の頁は、忠臣から謀叛の武将へ__永井路子・文 お市は織田信長の妹に生まれた。・・・・・」と、いう語り口で心を誘う__。人物余話は、薄命の佳人といわれたお市の方__安西篤子・文で、「歴史を彩る女性たちの人気投票をしたとしたら、お市の方は必ず、一、二位を争うに違いない。稀に見る美人でしかも貞淑、加えてその生涯は薄幸の一語に尽きる。誰でも好意と同情を寄せずにはいられまい。
 
 
p98-99 秀吉の遺言状(右頁) 歴史異聞余聞(左頁).jpg

p98-99 (右上)秀吉の遺言状 歴史異聞余聞(左頁) 
 右ページ上の写真は、秀吉の遺言状。解説が添えている。
 
   返々秀より事   
  たのミ申し候五人  
  の志ゆたのミ申し候 
 
   ※書き順からすれば、本来ここから始まっている
   秀より事   
   いさい五人の物申し    
   なりたち候やうに   
   わたし候なこり   
   此かきつけの   
   おしく候   
   しゅとしてたのミ   
   申し候なに事も此不かにはおもい   
   のこす事なく候
 
    ※最後の言葉を要約すると 
  かえすがえす 秀頼ことたのみ申し候・・・・・
   なに事も このほかには思いのこす事なく候   
                        
                        八月五日 秀吉印
                                  
                                                              いへやす 
                        ちくせん   
                        てるもと   
                        かけかつ   
                        秀いへ  
                        まいる
  (写真・左)秀吉辞世の和歌
  つゆとをち つゆときへにし わかみかな 
    なにわの事も ゆめの又ゆめ
 
   (写真・下)秀吉の遺徳をしのび、その霊をまつる豊国廟
 
 
   左頁 歴史異聞余聞   庶民茶会を広めた秀吉__井口朝生 
 
  (写真・上)秀吉所用・古芦屋姥口?釜 (下)北野大茶湯図(部分)秀吉は若党・町人・百姓などにも呼びかけ、大茶会  を催した
 
 中国の宋時代に闘茶(とうちゃ)という遊技が、始まりといわれている。日本には室町時代に渡来し日本化され、〈茶の湯〉と呼ばれ風雅な遊技となり〈茶道〉となった。    足利義明を奉じて上洛した織田信長が初めて出会った茶の湯に魅せられ、名物茶器の蒐集を始めたのが信長だった。しかし、それが高じて偏執的になり、将士が許可なく茶の湯を行うことを禁じ、戦功武勲のある家臣に名物茶器を賞与し、免許まで与えた。それを手にしたのが秀吉である。(本文より抜粋引用)
  
 
 
 
p122-123 真田幸村.jpg
 
p122-123    真田幸村 文・福田善之

(写真・右から)六文銭提灯 (下)真田庵(かつてあった場所に建てられたもの (中央)六文銭瓦 家紋が瓦にも (左)六文銭文黒塗水筒
   真田幸村  大阪落城の快男児     福田善之・文
 幸村は、生涯で三度しか戦いらしい戦いをしていない。幸村の名については、信仍(のぶより)、信繁(のぶしげ)などがあるが、ここでは幸村をとることにする。生まれて初めての戦いは、慶長(けいちょう)5年(1600)関ヶ原の戦いの時。それも主戦場関ヶ原へ行ったわけではない。関ヶ原へと向かう関東勢のうち、徳川秀忠の率いる軍団が、真田の居城上田城を、ひともみに、揉みつぶそうと押し寄せた。その大軍を、父の昌幸と共に受けて立って、散々に悩まし、秀忠軍はは、関ヶ原の合戦へ行くのが間に合わなかったという働きをした。幸村34歳の時である。幸村と父のの守る上田城は落ちなかったが、関ヶ原では西軍が負けたため、真田も降伏した。父子は、死刑だけは免れて高野山へと、わずかな家来だけを連れて、配流の身(戦国時代、高野山は流刑場と同じ意があった)となった。それから実に14年、慶長19年、大坂冬の陣で幸村が生涯二度目の戦いだった。翌元和(げんな)元年(1615)、夏の陣で奮戦して、ついに討死=(戦死)。49歳だった。つまり、これだけである。※(本書より抜粋引用)今に名を残している名将ではあるのだが・・・。   
 自ら戦いを求める___老獪(ろうかい)に戦国を生きた昌幸___兄信之と幸村父子の別れ___大阪方の楯となる真田の軍略___勝利の中に味わう悲哀___浅井勢追撃の奇略。 これらは、本書の真田一族の物語のサブタイトルである。
 
 
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p142-143 徳川家康所用
(右上)徳川家康所用・スペイン製置時計 現存するゼンマイ式時計では世界最古のものとされる。 (右下)徳川家康所用・蒔絵硯箱(まきえすずりばこ) 家康が愛用した硯箱。右から三番目の鉛筆は現存する日本最古のもの。(中央右)家康所用・熊毛植黒糸威具足(くまげうえくろいとおどしぐそく) 水牛の角、熊の毛皮を使用した極めて威嚇的な甲冑。 。(中央) 家康所用・黄縮緬根芹雪輪小紋袷(きちりめんねせりゆきのわこもんあわせ) 甲冑の下に着用したもの。
(左上)家康所用・南京染付唐子徳利(なんきんそめつけからことっくり) 万歴(ばんれき)=中国、明の神宗朝の年号(1573~1619)=頃の佳品で家康が最も愛用したもの。
(左中)家康所用・梨子地菊桐葵紋蒔絵重箱(なしじきくあおいもんまきえじゅうばこ)・盃(さかずき)・燗鍋(かんなべ) 家康が陣中で用いられたと伝えられる酒のための諸機具。 (左下) 家康所用・純金茶道具台子飾 家康が作らせたもので、純度は20金?位とか。
 


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